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その肩の重荷を僕らが分け合えたなら・新海誠『小説 天気の子』

 

 以下、本作以外に映画『天気の子』アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』伊藤計劃『虐殺器官』のネタバレを含みます。

 特に映画『天気の子』を未見の方で何の因果かこちらに来てしまった方は今すぐブラウザバックなり何なりして、速攻で映画館に行きましょう。そのまま戻って来なくても大丈夫です。とにかく、映画を、観て下さい。後は個人的にですが、映画を観てから小説を読む事をお勧めします。警告というかお願いはここまでです。







 少数の犠牲で、他の大多数の人々が平穏に生きられるのだとしたら、自分達はその犠牲になる誰かを差し出すのだろうか。そんな事をかつての自分は考えていた。でもそれは間違いだ。大きな間違いだった。

 自分達は、もう既にその少数の犠牲を誰かに押し付けた後で、その事に無自覚でいるのだ。

 自分は愚かだから、自分がその『大多数が生きる為の少数の犠牲者』に割り当てられようとするその寸前まで、自らがこれまで誰かにその嫌な役を押し付けていたのだという事に気付かずにいた。いや、実際には気付いていたのに、深く考えて来なかっただけかもしれない。

 『天気の子』は、そういう意味では現代社会の風刺であり、寓話的な側面を持つと解釈する事も出来る。

 少しずつ狂って行く気候。それを宥める為に、人と天を繋ぐ為に選ばれる巫女は、言い換えれば人柱だ。シャーマニズム的な、或いはアニミズム的な世界観の中にあって、人々は古来より生贄や人柱を差し出す事で荒ぶる自然を鎮め、天候不順による凶作や飢饉といった困難から生き延びようとしてきた。

 もっと現実的に言えば、それは『物語を紡ぐ』という事だった。
 自然の猛威によって目の前で理不尽に奪われて行く命に対して、その死には意味があるのだという物語を紡ぐ事で彼等の死に意味をあらしめようとする行為。或いは人の手が及ばない災厄に対して、その成す術のなさに対する憤りや、祈りや、救いを求める心を掬い上げ、儀式化し、実体化させようとする試みだった。

 近代化の流れの中でそれら多くの儀式は神秘性を剥ぎ取られ、根拠のない迷信として葬り去られたかに見えるけれど、実際に「少数の犠牲を是とする事で大多数を救う」という考え方だけは根強く残った。そしてそれは、戦争や経済危機や耐え難い貧困といった社会問題が表出する時に決まって復活した。貧しさから来る口減らしや、優生学に基づくあの最悪の虐殺の様な形で。その後の歴史の中でも、多かれ少なかれ同じ様な犠牲は求められ続け、自分達はまた同じ様に彼らの犠牲を無視した。

 かくして自分達は、顔も知らない誰かの犠牲の上で安定した暮らしを得た。

 でも犠牲を求められる誰かが、自分にとってかけがえのない人だった時、自分はどうするのだろう。

 自分がこれまで誰かにそうして来た様に、その犠牲を、仕方がない事として受け入れられるのか。そんな事はない筈だ。

 アーシュラ・K・ル・グィンの掌編『オメラスから歩み去る人々』では、オメラスという都市の繁栄の為に犠牲を強いられる子供の姿が描かれた。やがて地下室に幽閉された子供の存在を知った者の中から、オメラスを去る人々が現れる。しかし彼らは、犠牲の下に繁栄を築く事は誤りだとしながらも、その子を救い出す事がオメラスの衰退を招き、多数の無辜の市民(全くの無罪ではないにしろ)が苦しむ事になる以上、自分達の手で地下室の扉を壊し、子供を救う事までは出来なかった。ひとりの子供の不幸と、大多数の市民の幸福を天秤にかけて、少数の犠牲=人柱を認めざるを得なかった。

 また伊藤計劃氏の小説『虐殺器官』の最後で、主人公は自分の国を地獄に落とす選択をする。
 虐殺の文法を利用し、自国以外のどこかで絶えず紛争や虐殺を引き起こし続ける事で、本来なら自分達に向かって来るであろう悪意や敵意を逸らす。そうして安定を得ようとする国家的な欺瞞を自分ごと潰す為に、国内に虐殺の文法を仕掛ける。それによって死ぬのは兵士だけではなく、女子供を含む全ての自国民だ。それは自分達が顔も知らない誰かに押し付けて来た敵意や悪意を、今度は嘘偽りなく自分達が全て引き受けるべきだとする意志であり、主人公のエゴだ。

 犠牲に基づく都市の繁栄に背を向け、静かに歩み去る人々がいる。
 欺瞞を暴き、断罪する事でひとつの国を地獄に変えてしまった者がいる。

 それに比べると、『天気の子』が描く世界は、不思議に穏やかに思える。けれど本作では、主人公の帆高がこんな思いを語るのだ。


“皆、本当は分かっているくせに――と、走りながら僕は思う。
 皆、なにかを踏みつけて生きているくせに。誰かの犠牲の上じゃないと生きられないくせに。陽菜さんと引き換えに青空を手に入れたくせに。
 そしてそれは、僕も同じだ。”


 誰のお陰でこの空が晴れたのかを誰も知らない。
 誰が犠牲になった事で、皆の笑顔がもたらされたのかを誰も知らない。
 その人柱として差し出された人は、今泣いているかもしれないのに。

 だから帆高は、自分が起こす行動がどの程度世界に影響を及ぼすか知らなかったとはいえ、陽菜という個人を救い、代わりに世界を見捨てる。「天気なんて狂ったままでいいんだ」とすら言う。それはエゴなんだろう。でも、自分達が誰かを人柱にする事でのうのうと享受している安定した暮らしと、彼が切実な願いから起こした行動と、どちらが身勝手なのだろう。自分にはそれは同じくらいの重みである様に思える。多数の人間が笑顔になる時、少数の犠牲はその陰に隠れて見えない。でもそれを願っている自分たちの無邪気な悪意が免罪される事はない。

 天気は狂ったままで、3年間も止まない雨は東京の低地を海に沈めてしまった。
 農業は大打撃を受けるだろう。治水工事のみならず、寸断された物流網の再構築だけでどれだけかかるか想像も付かないし、物語から離れて冷静に考えれば、その影響は計り知れない。

 でも、この物語はこれで良いのだと思う。

 少年と少女がその小さな肩に世界の命運の様な重いものを背負わされて、自分達の力だけで乗り越えなければならない物語はこれまでもあった。でも今この時、少なくとも二人だけがその重責に耐えなければならないなどという事があるだろうか。その他大勢の何も知らない人々の安寧の為に、少女が人柱にならなければならない理由があるだろうか。

 天気は確かに狂ったままだ。それは二人の責任かもしれない。でも、二人の犠牲に思い至る事もなく、二人以外の世界が結果として青空を手に入れる物語よりも、自分はこの二人がこれからも生きて行く未来を手に入れる代わりに、その他大勢である自分達が二人の肩に乗った重荷を分担して少しずつ苦しみを引き受ける物語の方を選びたいと思うのだ。それは今まで誰かを踏み付けて生きて来た自分達が、これから先をどうやって生きて行くのだろうという問いに対する、ひとつの答えになると思うから。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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