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例えば二人で同じ星を見上げていても・斜線堂有紀『不純文学 1ページで綴られる先輩と私の不思議な物語』

 

 読書って割と『誤読』だと思う事がある。

 別の場所で、百田尚樹氏の『永遠の0』の感想を書いた上で、「私の感想は作者からすれば誤読かもしれない。でも私にとっての読書体験というのはそういうものだよ」という話をした。「作者はきっとそんなつもりで書いていないけれど、でも私はこの様に受け取った」という事はままある。

 そして、本作でもまた私はきっと誤読をしている。

 本作は1ページの掌編を124話収録した文庫なのだけれど、それらは全て『先輩』と『私』の物語だ。先輩と後輩という二人の関係性と、二人を取り巻く、時に奇妙な世界観が楽しい。

 ひとつひとつの物語は1ページの掌編で完結しなければならないから、場面の描写等が必要最低限に抑えられている。例えばそれは「先輩」や「私」の容姿とか。だから私は物語を読み進めながら頭の中で色々な想像をする。そして勘違いをする。

 これは多分私の側のバグなのだけれど、『先輩』と『後輩』という関係性を提示された時に、なぜか私はそれをまず『同性』で想像する様に思考回路が組まれてしまっているらしい。別に先輩が男性で後輩が女性でも「先輩後輩」という関係は成立する筈なのに。異性と縁遠い生活をしているからだろうか。

 だから私は当然の様に本作を誤読する。女性二人の物語であるかの様に。

 そして、作中で先輩が「俺」という一人称を使ったり、「偽装夫婦」という言葉が出て来たりする辺りで初めて、「ああ、先輩は男性だったのか」と思い直して今までのイメージを修正しようとする。叙述トリックというか、これは単純に誤読である。

 そして、ふと思う。「私は自然と後輩である『私』を女性だと思って読んでいるけれど、そもそもそれにしたって明言されていただろうか?」そして次に思うのは、「別にこれらの物語は、『全てが同じ先輩と後輩の物語である』とは書かれていない」という事だ。いや、そう読む事が自然である事は分かるけれど。

 この辺りで、私は軽く目眩を覚える。

 物語に触れる時、読者がどんな世界を想像するか。そこにはどんな『先輩』と『私』がいるのか。

 1ページの掌編という形式では、物語の中のあまりにも多くの部分が読者の側に(良い意味で)投げ出されていて、自由に解釈され得る『余地』を残している。作者が物語を書く時に頭の中で描いていたイメージはあるのだとしても、それを知りようがない読者からすれば、「好き勝手に読む」事しか出来ず、しかもその答え合わせは不可能なのだ。

 きっと本作を読んだ人達を集めて座談会をしたり、読書会を開いたりすれば、様々な姿の『先輩』と『私』が登場するのだろうと思う。あるイメージは誰かにとっては誤読であり、またある人にとっては『地雷』だったり『解釈違い』だったりする。そう考えると、意地悪な考え方だけれど、ちょっと楽しい。

 かくして私は、私の中の『誤読』を訂正する事を放棄する。

 映画やテレビ、ゲーム等の「映像や音声によって彩られた物語」は、見る側に均一なイメージを提供してくれる。例えばファンが集まって、それらについて語る事は不思議な一体感をもたらす。でも読書は、「読者が物語の中に潜って行って、どんなイメージを掬い上げて来れるか」という意味で「とても個人的な遊び」なのだと言える。その体験を誰かと共有したっていい。でも、例えば同じ小説を読んだ人同士であっても、『私の中の物語』は、私だけのものだ。正解なんて無い。間違いもない。読者の数だけ世界がある。そこには読者の数だけ『先輩』がいて、『私』がいる。

 だから私はもう答え合わせをしない。正解を求めないし、間違いを恐れない。私の中の先輩がどんな人なのかを語らない。そうしておけば、私の中の先輩は、ずっと私のものだ。私だけのものだ。

 今日もページをめくると、そこには私だけの先輩がいて、私の事を待っていてくれる。

 だから私は、読書を愛し続ける。多分先輩と、同じくらいに。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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