FC2ブログ

自分の庭に、花は咲かなくとも 『アステリズムに花束を』

 

 『百合とSF』っていうものが話題になる様になってから、もう結構な時間が経った。自分は「伊藤計劃氏の『ハーモニー』が百合SFの白眉だ」って言われた時にあまり『ハーモニーの中の百合成分』がピンと来なくて、だから自分にはそもそも『百合』っていうものが分からないか、合わないのかもしれないって勝手に思っている。

 読む方がそんなだから、書く方はもっと致命的で、自分は女性っていうものを瑞々しく描く事ができない。いつもそれは「もう少し」の所で自分から逃げて行く様な気がしてしまう。後は単に、女性が怖いし、人間が嫌いだからだ。

 既に何回か言っている事だけれど、例えば『銀河鉄道999』で『機械の体』っていう生き方が提示された時、自分は「むしろネジになりたい。ネジでありたい」と思ってしまう事がある。たったひとつの、何かを繋ぎ止めるという役割の為に作られた存在。そこには可能性がない。自分の役割や存在意義も全て定められていて、別な可能性なんてものはない。可能性がない代わりに、無駄もない。たくさんの道が選べる訳じゃない代わりに、迷いもない。正確に言えば迷う余地がない。もっと言えば傷付き易い心なんていう柔らかい部分もない。悩み、ブレる意思が存在していない。

 自分もそんな風に、誰かに作られたかった。

 だから自分はきっとナイフが好きなんだろうと思う。ただ何かを『切る』という役割の為にその存在の全てがある。硬度も、切っ先から流れる刃のラインも、手が触れるグリップの部分も、全ては単一の目的の為に特化されていて、迷いがない。無駄がない。

 でも自分達に備わっている『心』は、やっぱりそういう風にはできていない。
 固く冷たい鋼の様にはできていない。

 人間関係というのは複雑で、誰かを愛するとか愛されるとか、そういう話になってくると胸を掻き毟りたくなる。感情は流体だから、その流れて行く先を自分で制御する事ができない。その流れは時に他の誰かの流れと交わったり、別れたり、混じり合ったりする。だから怖い。自分というものの形が、自分以外の誰かとの交流によって変わり得るというのは、自分の様な人間からするととても怖い事だ。でも、だからと言って引きこもってみれば、今度は孤独に耐えられなかったりする。何なんだろうね。

 自分には百合が理解できないのかもしれないと思いながら本著を読み終えて、それはまあ概ね当たっていて、でも自分の中の『孤独』みたいな部分は、どんな形であれ彼女達の感情が流れて、交わり、時には離れて行くのを見ながら、それら全てを寿ぎたい様な気持ちになっている。

 誰かの心に近付く、触れるという事は、勇気がないとできないものだから。自分の心に誰かが触れる事を許すという事も。

 誰でもできれば傷付きたくないし、誰かを傷付けたいとも思っていない。でも誰かと手を繋ごうとすれば、誰かを抱き締めようとすれば、相手の柔らかい部分に触れずに、自分の弱い部分に触れさせずにそれをするっていう事は不可能だ。誰かを求める事、誰かを想う事、誰かを愛する事はそういう事で、その『覚悟』を常に求めてくる。

 自分の心の中に『特別な席』があって、気が付いたらその椅子に誰かが座っている。

 それを拒む事も、受け入れる事も、衝突して傷付ける事も、手を取り合う事も、その自分を晒し、相手に触れる覚悟の向こう側にあって、だから自分は、壁を乗り越えた先に行けなかった。自分が乗り越える事を諦めた先にある物語だから、自分にはきっと彼女達の事が分からないんだろうと思う。

 今自分がやっているのは、その越えられなかった壁に手を当てて、向こう側から伝わって来る熱を確かめている様なものだ。我ながらちょっとどうなんだろうと思う。でも単に女性同士の親愛や憧れの延長線上にあるものが百合なのではなくて、互いにぶつかり合う様な関係や、両者のすれ違いすらも内包する大きな関係性が今で言う『百合』というものなのだとすれば、そこにある熱というか情念の様なものの一端に触れる事はできたのかなと思う。

 多分、自分は羨ましいのだろうと思う。
 他者に手を伸ばす事ができた彼女達が。彼女達が持っている、自分にはない、強さが。
 自分の庭に、花は咲かなくとも。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
Twitter
リンク
RSSリンクの表示
Amazon