どこまでが正気で、どこからが狂気か・村上龍『昭和歌謡大全集』

 以前、『半島を出よ』についての感想を書いたが、この『昭和歌謡大全集』の主役とも言うべきイシハラとノブエという二人の男は、後に『半島を出よ』でも重要人物として再登場する事になる。

 本作を端的に説明するとすれば、『共に社会に適合できないでいる若者とオバサンのグループ同士が、あるきっかけから血みどろの抗争を繰り広げる事になる』というものだ。比喩ではなく、両者が血で血を洗う抗争を繰り広げる先には一体何があるのか。

 本作はそのストーリーからして荒唐無稽で、あえて断言するなら登場人物にまともな奴は一人もいない。しかもその元々まともではない連中が、物語が進むにつれて更に加速度的に壊れて行く。イシハラやノブエ、そして彼等の仲間達は言うに及ばず、彼等と敵対する事になる、名前がミドリだという共通項だけで結成されたオバサングループ『ミドリ会』の面々も皆社会からズレている。『普通』や『常識』という枠内に収まる事が出来ない彼等の行き着く先はどこにあるのかといえば、徹底的な日常の破壊に向けて雪崩れ込んで行く。

 自分は小説に正しい読み方は無いと思う。小説を読んだ結果として読者がどんな感想を持ち、そこからどんな教訓や意味を読み取るかは自由だ。本作もその中にはギャグがあり、暴力があり、性があり、昭和歌謡というキーワードがある。ぶっちゃけ単なる馬鹿話として笑ってしまう事も出来る。実際本作での暴力のエスカレート具合は、丁度ドリフのコントがラストに向けて過激になって行くのに似ていて、その疾走感がまた黒い笑いを生む。

 一方で、非常に硬い考えで本作を読むと、そこには『普通』とか『常識』とか『正しい』とかいう世間の価値観がいかに脆く崩れ易いものかという事を気付かせるという意味でのパンチ力がある。先に言った様に本作にまともな人間はいないが、これだけ執拗に人間の狂気を描いた作品を読むと、どこまでが人間の『正気』で、どこからが『狂気』なのかという境界線があやふやになってくる。その浮遊感が恐ろしい。
 人間の狂気と言ったが、一般人の目線から言って『狂っている』人間は、その狂気を正気として生きている訳で、傍から見れば狂っている様に見えても本人は自らの狂気を自覚していないのではないだろうか。だとすればそれは自分達も同じ事で、自分の正気は誰が保障してくれるのかという事になる。

 実際自分達は、各々が持っている価値観をすり合わせて、何とかお互いが社会的に共存して行く為の前提として作り上げた最大公約数的な幻想を『常識』或いは『正気』として信じ込んでいるだけなんだろう。そしてその正しさなどというものは、前提となる幻想が崩れ去った時点で効力を失う。その薄氷の様な幻想を必死に守って生きている自分達の姿を本作は浮き彫りにする。

 自分は正気なんだろうか。対する社会の正気は、本当に正しいと言えるのか。ざわざわとする読後感の中で、またイシハラ達が笑っている。

 

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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