人を切り捨てようとする心理。

 秋葉原の通り魔事件から1年が経過したという。
 今当時を振り返ると、もうそんなに経ったのかと思う反面、相応に風化したなという思いもある。
 TVでは街頭インタビューに答えた人が『風化しない事件だと思う』と言っていたけれど、自分が関係した事件でもない限り、決して風化しない事件等というものはこの世には無い。

 犯人の加藤智大に対する評価はネット上でも現実でも散々なもので、一言で言うなら『キチ○イ』という事になるんだろう。こんな凶悪犯の心理や犯行動機なんて理解できないし、したくもないという反応が殆どだった様に思う。ネットでは派遣切りなどの境遇から一部加藤を擁護するものもいたらしいが、それはごく少数だったろう。

 しかし、自分には当時から事件報道について一つひっかかっている事がある。
 犯人の加藤が犯行予告の書き込みを行ったというスレッドには犯行予告以外にも加藤による数々の発言が書き込まれているのだけれど、実はある歌の歌詞が引用されている部分があって、その歌が入っているCDは自分の家にもある。隠しても仕方ないので書くと、BUMP OF CHICKENの『ギルド』という歌だ。

 今までも凶悪事件が起こる度に、マスコミは『それが何の影響によって引き起こされたか』という事を執拗なまでに追求してきた。幼少期の作文や卒業文集、自宅の本棚に並んだ漫画や小説、ゲームソフト等、少しでも可能性がありそうなものを見付けては徹底的に叩くという事を繰り返してきたわけだ。

 そのマスコミが、この歌については目立った発言を殆どしていない。

 自分の感じた違和感はつまり次の様な事だ。
 きっとマスコミも世間も『こんな凶悪な事件を起こした犯人はキチ○イでなければならず、その為には犯人に同情的な意見や共感を生じさせる様な要素は極力排除しなければならない』と思ったのではないか。その為にこの歌についての記述はあえて無視されたのではないか。
 つまり自分達の社会から加藤を切り捨て、排除する事で安心しようとしたのではないか。

 確かに、凶悪犯と自分達との間に共通点があると考える事は不快だし、辛い。それは何かのきっかけで自分もまたあちら側へ転げ落ちるのではないかという可能性を想起させるからだ。だが、犯人を理解不可能の狂人として自分達の社会から排除し、『自分達とは一切無関係だ』とする事で僅かばかりの安心を得たとして、それは事件から目を逸らしただけの事だ。問題は何も解決していないし、このままでは第二、第三の加藤が生まれないとも限らない。派遣労働者の待遇は改善されていないし、非正規雇用も減らない。不況もまだ続くだろう。人間関係が上手く構築できない若者はむしろ増えているだろうし、個人の不安や孤独に対する社会的手当ても無いに等しい。

 結局事件が教訓を残す事は無く、あの日から変わった事といえば休日の歩行者天国が無くなった事とダガーナイフが銃刀法違反となった事だけだ。そうして犯人を脱落者として社会から切除し、凶器とされたナイフに『社会的極刑』を科して満足した残りの社会=我々は、今日も事件前と代わり映えのしない世界で何とか生きて行くしかない。

 不安は減らない。ここに書いた様な言葉が何かを解決する事も無い。出口も無い。

 それでも明日は来るし、時は過ぎる。そしてまた一年後に、あの通り魔事件から二年目というニュースが流れ、自分はまたここに書いた様な事を思うのだろう。進歩しないのは社会なのか自分なのか。多分両方なんだろうと思うけれど。

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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