悲しくない事が、死ぬ程悲しい

 今日会社に出勤してみると、突然の訃報が舞い込んだ。昨夜遅く、課長が亡くなったという事だった。

 先週金曜日に会ったのが最後だったが、亡くなる様な兆候は何一つ無かった。昨日になって、『どうやら風邪らしく、体調不良で休む』という旨の連絡が本人から入り、滅多な事では休まない人なのに珍しいなと思ったが、ただそれだけだった。それが深夜には急変して亡くなってしまった。
 課長は自分の父親よりも幾分か若く、まだまだこれからという年齢だった。本人もまだ自分が死ぬ事など考えていなかったに違いない。

 朝、出社直後にその事を聞かされたのだが、自分の心は驚く程何も感じなかった。

 過去には、悲しみが深すぎて処理しきれずに似た様な状態になった事もある。悲しいという気持ちを通り越すと、人間は泣く事も出来ないものかと思ったが、その時は確かに処理しきれないながらも心中に悲しみはあった。涙を流す事は出来なくても、悲しみの手触りを感じる事は出来た。だが、今回は全く違う。

 自分は今、少しも悲しくない。驚く程に、心中には何も無い。

 愕然とした。

 短い間ではあったが、大変お世話になった方だった。平日は毎日職場で顔を合わせ、仕事の話をし、時に指導を与えてくれた人だった。休憩時間や終業後には趣味の話や、お互いの家族の話をした事もあった。そんな人が亡くなったというのに、自分は少しも悲しくない。悲しみの欠片すら無い。
 当然、大の大人が悲しいからといって職場で泣き崩れるかというとそれはないだろう。大人とはそうしたものだ。ただ、悲しみを堪えて泣かない事と、悲しみそのものを感じない事とは違う。違う筈だ。

 薄情者だとか、そんなレベルならまだいい。元々自分は薄情な方だし、人間が好きか嫌いかと言われれば嫌いな方だ。でもこれはそういうレベルではない。何も無い。自分の心は何も感じていない。

 恐ろしくなった。

 本や漫画を読んで、映画を観て、ゲームをやって、そんな虚構の物語の登場人物に対してですら自分は涙を流す事が出来るのに、何故現実に同じ空間を、時間を共有した生の人間の死に対して何も感じなくなってしまっているのか。会社の上司の死に対して悲しみを感じないというのなら、どれだけ自分に近しい人の死に対してなら自分は悲しみを覚える事が出来るのか。もし友人や親兄弟が亡くなった時に、今の様に何も感じないのだとしたら、その心は既に死んでいるんじゃないか。いや、もしかすると自分の心はどこかの地点で既に壊死していて、その残滓がかろうじて小説や映画といったものに触れた時だけ条件反射的に感情らしきものをエミュレートしているだけで、心と呼べるものなど既に自分の中には残っていないんじゃないか。自分はそういう虚構の物語を摂取しては、『まだこうして泣いたり笑ったりできる間は大丈夫だ』などと勘違いをしているが、それは感情の紛い物なんじゃないか。それを否定する根拠があるか?誰がお前の心がまだ生きていると証明できる?自分ですらそれを疑わしいと思っているのに?

 悲しいのは、悲しくない事だ。悲しくない事が、死ぬ程悲しい。 

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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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