人々は見たいものしか見ない・伊藤計劃『虐殺器官』

 

 今勤めている会社本体やその関連会社でも、仕事の一部を外部に委託している。理由はまあ色々ある。業務に関わる事柄全てを自社で処理しなければならないとなると、人的にも金銭的にもコストがかかり過ぎるとか、その業務を遂行する為のノウハウも、自社の人間に一から学ばせるより、慣れている外部の人間に委託した方が確実だとかいった様々な部分でメリットがあるからだ。
 上記の通り、業務委託の大半はコスト削減やリスク回避及び業務の効率化にその意義がある。製造業では生産調整及び雇用の調整弁として派遣労働者が雇用されて来たが、それはまた別の話だ。

 伊藤計劃『虐殺器官』を読んでいて、戦争行為すら外部に委託される時代が来たんだなという事を漠然と思った。

 『戦争遂行業務』

 そんな風に言葉にされると、既成の戦争に対するイメージが崩れてくる。そして戦争すら業務委託出来る様になった人間は、これから先どんなものを自分から引き剥がして他者に委託する様になるのか。いや、時既に自分達は他者に委託してはいけないものを数多く委託してしまってはいないか。

 自分一人で何もかも背負い込んで生きて行く事など不可能だ。少なくとも国際社会で生きるとはそういう事だし、日本もその枠組みの中にしっかりと組み込まれている。しかし過去においては本来自分で行ってしかるべきだった筈の行為まで外部委託される様になると、人々の生活は様変わりして行く。そこにはリスクや責任を他者に負わせ、僅かな対価を支払う事でその利益だけを得る事を可能にした現代人の、恐ろしいまでの無邪気さと悪徳がある。

 例えば畜産家が飼育し食肉解体業者が肉にしてくれる事で、自ら家畜を育てる事や命ある動物をその手にかける事から解放された人間は、それらを大量に消費しつつ、しかも余剰分を廃棄して憚らない様な暮らしを容認した。平たく言うと、どれだけ肉を貪り食おうが、食い残しを廃棄しようが頓着しなくなった。自分の手は汚れない。罪悪感も無い。

 もっと言えば、本作でも言及されていた『ヴィクトリア湖の環境破壊問題』は実話で、『ダーウィンの悪夢』というタイトルでドキュメンタリー映画化もされている。かつてダーウィンの箱庭とまで呼ばれる程多用な生命で溢れていた湖では、輸出用の食用魚として放流されたナイルパーチが湖に生息する固有種を食い尽くし、その多くが絶滅した。外国人の口に入る魚の為に、湖の生態系と現地の人々の暮らしは完膚なきまでに破壊されたが、その事で日々罪悪感を覚えているなどという外国人はまずいない。白身魚のフライを食べる度にヴィクトリア湖に思いを馳せる日本人がいない様に。

 『人々は見たいものしか見ない』

 本作で唱えられるテーマは、どこまでも正しい。
 そうして自ら負うべき行いやリスクを外部に委託し続けた結果として辿り着いた極北が『虐殺器官』には描かれている。人々が見たくないものとして視界の外に追放した不実。視界から消し去る事で、その存在すら無くしてしまおうとする不実。それらはやがて跳ね返って来て、その身を焼く。

 今日もどこか遠くの国で、僅かな対価と引き替えに日本人の不実に押し潰される人々がいる。そして日本人である自分達は無自覚にその恩恵だけを受け取る。ならばいつか本作の様に、日本人が、そして自分がその不実を埋め合わせる時が来るのだろうか。

 <関連項目>

 伊藤計劃『ハーモニー』感想

   

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