公共事業における『公益』とは誰の為のものか?(1)

 先日、埼玉県秩父市に龍勢を観に行ったという話を書いたが、あの辺りはダムが多い事でも有名だ。国内には数多くのダムがあるが、最近では各地で『ダムカード』なるトレーディングカードも発行されていて、ダム見学をすると記念として貰えるなど、ユニークな試みも行われている。
 しかし、ここにも政権交代の影響は少なからずある様で、脱ダム、脱大型公共事業の流れの中でこれからの県政、また市政をどの様に行なうのか、国を相手に舵取りを迫られていると言える。群馬県では八ツ場ダムが大問題になっているが、同じ様に埼玉県秩父市にも既に本体工事を終えた滝沢ダムがある。

 自分は今回旅行者として秩父市を訪れた。だからダム建設等の公共事業に対する意識は、地元住民の方々が抱くそれとは異なる。自分からすれば、無駄な公共事業と断言出来る様な杜撰な計画ならば、そんな税金の無駄は一件でも多く白紙撤回された方が良いという思いでいる。しかし当然ながら、その地域に根を張って生きている方々には、もっと切実な地域住民としての視点がある。そのどちらが正しい主張かなどという事は、自分には容易に決められる事ではない。何故なら自分も一度家に帰れば、同じ様な公共事業が行われているであろう『地元』を抱える地方在住者だからだ。それと都市生活者の見解とはまた異なるだろう。

 日本の公共事業、特にダム等に代表される大掛かりな建設事業は、計画されてから完成までに長い時間を要する。当然、当初計画による見通しと現在では社会・経済の情勢は様変わりしている訳だから、現状に即した計画内容の見直しは中止の検討も含めて随時行われなければならない。

 しかし、日本の大型公共事業が長年抱え続ける問題として『一度立てた計画は絶対に中止・撤回しない』という大前提で国や地方行政が動くという歴史がある。たとえ情勢が変化しようと、当初計画の目的に若干の変更を加えた程度でダム建設が推進され続けた理由はこの体制にある。例えば当初、農業用水や飲料水の確保が目的とされたダムが、水の需要や人口の減少を受けて計画内容の変更を余儀なくされた際に、建設続行を意図して多目的ダムに事業内容を変更される事がこの国では日常茶飯事だった。そこには中止も視野に入れた本当の意味での計画見直しの余地は無く、まず建設ありきという姿勢が透けて見える。

 結果として建設反対派の声は圧殺され続けた訳だが、今八ツ場ダム等で問題とされている建設中止の断行も根は同じだ。建設か中止かという方向性が違うだけであって、政府にはもとから対話の余地が無い。結局、国の意向を押し付けられる地元としては、国とはまともな話し合いなど出来ないのだというこれまでの流れに何ら変化が無いのだから、到底納得出来る訳が無い。

 ふと思う。結局、公共事業の目指す公益とは誰を対象にしたものなのか?その為に犠牲を強いられる立場の少数派がいたとして、彼等の意見を誰が聞き届けるのか。そしてダム建設という公共事業が、より多くの国民を対象とした高速道路料金の無料化や子ども手当支給等の財源確保の為に中止されるのだとすれば、その受益者である自分達は少数派を食い物にしている事にはならないだろうか?

 八ツ場ダムの建設続行を望む地元長野原町の役場等には、抗議のメールや電話が殺到しているという。税金の無駄を無くす為の改革に対して、ひいては多数派の民意に対して抵抗するなという訳だ。当然中には誹謗中傷に近いものも含まれている事だろう。しかし、そうして『義憤』に駆られて抗議活動をする人々には、自分が公益の為に犠牲を強いられる様な少数派になる事態などというものは想像出来ないに違いない。

 漠然とした『国民全体』を対象とする公益などというものがあるとして、そこから除外された少数派は、より多数の国民が享受する公益の為にその人生を左右される。自分がその少数派に追いやられた時に、それでも仕方が無いと言い切る覚悟を持てる人間が、長野原町役場に抗議のメールを送り付けた人間の中に果たしてどれ程いるか?少なくとも自分にはその覚悟は無い。

 ダム建設推進、反対といったそれぞれの立場を超えて、国に問うべきものはある。それは『果たしてこの国の行政は少数派の意見に耳を傾ける姿勢を持っているか否か』という事だ。そしてそれは、自分が少数派になってから気付いたのでは遅い。

テーマ : 時事
ジャンル : 政治・経済

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Author:黒犬
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地方の片隅で今日も黙々生息中。

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