心に爪痕を残す様に・葦舟ナツ『ひきこもりの弟だった』

 

 最初に書いておく。読書に「清々しい読後感」を求めるなら、本作は全くそれに向かない。正直、本作を読み終えて、自分はどうしようもなく暗い感情が湧き上がって来るのを感じている。誤解がない様にこれも最初に書いておかなければならないだろうが、本作において希望は示される。ただその示される希望は、淡く、遠く、自分にはそこに到れる気がしない。

 全ての物語がハッピーエンドである必要はないと思う。それに、何をもってハッピーエンドとするか、バッドエンドだとするかは人それぞれだ。ただそれでも、多くの読者が素直に願うハッピーエンドの形というものはある。ひとつの物語を経て、登場人物が幸せになる事。そのきっかけに至る事。希望を、見出だせる事。それらが叶えられているかどうかを、読者は読み解く。感じ取る。

 この物語の結末をハッピーエンドだと受け止める読者は、きっと少ない。一読して、自分が最初に感じたのは、最後の最後に突き放された様な感覚であり、唐突さであり、やるせなさだった。と同時に、自分はこの物語の主役である男女に、少なからず感情移入していたのだという事に気付かされた。

 ひきこもりの兄を持つ弟として、兄の影を引きずる様に生きて来た青年がいる。

 そんな見知らぬ男と出会い、即座に結婚を決め、夫婦になる事を選んだ女性がいる。

 二人は夫婦として暮らし始める。彼氏彼女の付き合いをする事もなく、唐突に、何かの契約の様に始まる結婚生活は、互いの生活を変えて行く。お互いが相手の心に触れる。干渉する。引っ掻き傷を付けて行く。その中で過去の記憶が蘇る。青年はひきこもりの兄と、その兄の肩を持つ母親との記憶を反芻する。そこには確執があり、憎しみがあり、怒りがあり、恨みがあり、呪いがある。血の繋がった兄に対して、その死すら願う。自分を産んだ母親に対して、今の自分を育てた家庭に対して、『普通』である事を奪われた弟が抱く感情はどれも暗く、呪わしい。そんな負の感情、人間が抱く暗い部分が、一見幸せな現在の夫婦生活を描く中に挿入される。その暗さと暖かさの対比。冷たさと温もりの対比が鮮やかで、目を奪われる。

 本作に関する感想を書く時に、自分は最初、『自分語り』をしない訳には行かないだろうと思っていた。「自分がどの程度どうしようもない人間で、だからこそ本作のどの部分が自分に刺さったのか」という様な。でもそれは止めておこうと思い直した。それは人間一人が抱えている暗い部分を吐露する事になるし、全てを吐き出すにはとても長い文章を書かねばならなくなる。そしてそれは、自分以外の誰かが目にしたとして、何の価値もない。プラスに働かない。ただ他者の気を沈ませ、不快にさせるだけになるだろう長文を吐き出すのは単なる自己満足であり、言ってしまえば排泄と同じだ。

 その代わりに何を書けば本作について語る事が出来るだろう。そう考えた時、自分が思い出したのは、新海誠監督の『秒速5センチメートル』を観た時に抱いた感情だった。

 あの物語がハッピーエンドと言えるのかどうか。その事を自分は随分と考えた気がする。確かに希望は示される。でもそれは本作『ひきこもりの弟だった』に込められたそれと同じ様に、淡く、遠く、分かり難い。

 今になって、同じ新海誠監督の『君の名は。』を観た後で思うのは、自分が求めていたのは――誤解を恐れずに言えば――もっと陳腐な、分かり易い、手垢に塗れた様なハッピーエンドだったのだろうという事だ。それは本作に対しても同じ事が言える。作者がこの物語に込めた希望は、最後に語られるそれは、酷く分かり難いからだ。それを感じ取ろうとするには、読者の側が埋めなければならない行間が余りにも多い。

 もっとおとぎ話の様に、例えば『Happily ever after』と言って締め括られる様な物語であれば、更に多くの人が素直に共感できる物語になっていただろう。本作がそれをしなかったのは、選ばなかったのは、本作が読者の心に爪を立てる様な、引っ掻き傷を残す様な物語である事を志向したからなのではないかと思う。もし本当にそうなのだとすれば、その試みは成功している。

 傷を付けられた場所からじくじくと痛みが広がる様な、そして溜まっていた膿が滲み出して来る様な感覚がある。自分の中の暗い部分を掘り起こされる様なそれを、不快と感じる事もある。ただ小説の存在意義のひとつが『読者の心を揺さぶる事』なのだとすれば、本作は間違いなくそれに値するのだと思う。

 揺さぶられた自分の心の中から何を掬い取るのか。それは読者の側に委ねられている。その事について思う時、この物語の結末が、また違った景色を伴って見えて来る気がするのだ。

 

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躱せない、言葉による刺突・江波光則『屈折する星屑』

 

 今回、あらすじは他に譲って、砕けた言葉遣いで感想を書こうと思った。綺麗に、丁寧に、順序立てて、整理した感想を書く事も出来る。ただそれでは本作で描かれる、ある意味無軌道で衝動的な、刹那的な若者の生き様には近付かない様な気がする。

 バイクという乗り物に対する憧れがある。実際に乗った事がある人、今も乗っている人からすれば自動車と同じ様にただの移動手段なのかもしれない。でも本当にただの移動手段として考えるならば、車の方が楽だ。雨風は凌げるし、エアコンもある。荷物もより多く積める。万が一事故に遭った時も安全性が高い。
 バイクとは自動車にはない不便を許容する代わりに、自動車では味わえないものを享受する為の乗り物なのだろうと思う。それが何なのかは人によるだろうが、バイクに乗るという経験をした事がない自分には知り得ないものがきっとそこにはある。

 この間、自分の車と並走する形で暴走族に会った。今となっては古式ゆかしいのかどうか知らないが、改造されて大きく張り出した風防と、背もたれがやたら縦に長いシートを持つバイクに跨り、たった2台で、道交法を守って安全運転で走っていた。信号待ちでやたらと空吹かしするのだけが喧しかったが、それも「自分はここにいるぞ」という自己主張なのだと思えばまだ許せた。赤ん坊が泣くのと同じだ、とか言ったら向こうは怒るのかもしれないが。

 自分は30代も後半、40が目前のオッサンで、彼等と同じ事をするだけの熱量はもうない。いや、爆音を立てて(そのくせ速度制限はきっちり守って赤信号では停車する様に)走りたい訳ではないが、自分のやりたい事をやる為に手間を掛け金を掛け、自動車に比べれば不便である代わりに単車が与えてくれる何か得難いものを味わっているであろう彼等が素直に羨ましかった。そして同時に思った。自分は誰に遠慮して馬鹿真面目に生きているのだろうと。

 自分が中高生の頃だっただろうか。バイクに興味がある様な事を言った時、「事故ったら間違い無く死ぬ事になるから止めた方がいい」と言ったのは親だった。実際中学校では上級生がバイク事故で死んでいたから、その言い方はもっともだった。万が一事故に遭ったら死ぬ。でもそれが何だというのだ、と反発し、我を通すだけの情熱は自分には無かった。自分は聞き分けが良いだけのガキで、人からちょっと押されれば引っ込める程度の自己主張しか出来ない奴だった。その事が今もって尾を引いている気がする。何に対してか。自分が今クソつまらない生き方をして年老いて行こうとしている事に対してだ。

 昔から不良やヤンキーは嫌いだった。暴走族も嫌いだった。自分勝手に振る舞って他人に迷惑を掛けて悪びれない。そのくせ時期が来たら足抜けして「自分も昔はワルかった時期もありましたけど今は真っ当にやってます」という体でしたたかに社会に順応して行く様も嫌いだった。自分の様に親の言う事に従い、教師や大人に反発する事もなく真面目にやるしか能がない聞き分けが良いだけの人間を嗤っているかの様な連中の態度が大嫌いだった。憎んでいた。なぜそこまで憎むのかと言えば、本当は彼等が羨ましかったからだ。

 自分の命を、他の誰に遠慮するでもなく配慮するでもなく使ってみたい。

 無軌道な事をこそやってみたい。周りから馬鹿にされ嗤われ唾棄される様な、それでいて自分が生きている事を実感できる様な自分勝手な事がしてみたい。「単車で事故ったら死ぬ? 危ないから止めとけ? 知るかボケ!」位のふてぶてしい態度で、他人に不快感を与えても何とも思わず自分勝手に手前勝手に自分の命を使う。自分の命を生きる。その程度の事が出来なかったから自分は今こうしてここにいて、自分以外の誰かの為にはなっているのだろう真面目さと聞き分けの良さを発揮して毎日働いている。やりがいとか生きがいとか生の実感とか、そんな事を感じ取れない無味乾燥な日々に自分を頭の天辺まで埋めて窒息死しようとしている。自分自身で自分を生き埋めにしている。それは緩慢な自殺だ。どうせ死ぬなら、自殺するなら自分勝手な事を全部やらかした果てに死んだ方がいいに決まっているのに。その方がまだ正直だ。自分の命に対して。自分の欲望に対して。

 でも、それが自分には出来ない。もう、出来はしない。

 若い頃なら出来たのか。それともこんな性格に育った時点でもう無理だったのか。それは分からない。でも、この小説を読んでなぜだか泣きそうになっている自分は、自分の生き方を悔いているらしいのだ。虚しいと感じているらしいのだ。本作で主人公のヘイウッドは廃棄指定済みの円柱型コロニーの内側で、ホバーバイクに跨り、人工太陽の周りを飛び回る。何の生産性もない。将来の展望もない。しくじったら死ぬかもしれない。というかこんな事を続けていたら間違いなく自分が死ぬか誰かを殺す羽目になる。実際同じ様なバイク乗りが何人も死んでいるしこれからも死んで行くだろう。それが分かっていてもやる。それは馬鹿だからという訳じゃない。今の自分はそう思う。

 真面目だけが取り柄の自分の生き方は賢い訳じゃない。賢しいだけだ。

 ヘイウッドは一見馬鹿な事をしている様に見えるかもしれない。自分に正直なだけだ。

 自分は自分に嘘を吐く様にして社会と折り合いを付けて来た。これまでもそうだしこれからもそうだろうと思う。でも本当は息が詰まりそうだ。吐き気を催す位『生き苦しい』んだ。ここは地球で、密閉され朽ちて行くコロニーの内側じゃない。それでも自分が自分の手で規定した檻の中から抜け出せないでいる。社会規範とか常識とか他人への配慮とか、そんな見えない壁がそこら中にあって真っ直ぐに歩けない。窮屈で、どこにも行けなくて、先がない。居場所がない。目指すべきゴールがどこにも見付からない。

 読後感で「痛みと吐き気を感じました」などと言ったら普通は褒め言葉にならないだろう。でも今の自分はそれを褒め言葉として使いたい気分だ。それは本作が自分に刺さったという事だから。ラブレスのヌードマークを背負ったスピアポイントのナイフの様に突き刺しに来る。刃ではなく言葉で。だからこの感想は突き刺された奴の呻き声だと思えばいい。

 痛いという事はまだ死んでいないという事だと思いたい。

 つまるところ、この一見本の感想の様な呻き声はそういう単純な話なのだろうと思う。

 

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自分の屈折に気付かされる物語として・長谷敏司『ストライクフォール 2』

 

 個人的に、スポーツを描いた作品はあまり読まない気がする。それはスポーツが『勝ち負け』がはっきりとした、言い換えれば『弱肉強食』を本質とした世界だからだ。プロスポーツならなおさら。そして自分は『負け』側であり、『喰われる』立場だと思っているからだ。

 自分は昔から運動嫌いで、体育の成績も悪く、団体競技ではチームの足を引っ張る様な人間だ。スポーツ観戦の趣味もなく、スポーツ全般に良い思い出がない。だから敬遠する。勝ち負けがはっきりとした世界。実力だけが物を言う世界。勝つ事の喜びを味わう為に努力し、己の腕で輝かしい成果をもぎ取る。そういう『勝者だけが輝く世界』は、自分とは縁遠いものだと思っている。そうした人間が、オタクの嗜みとして当然の様に好きなものである『宇宙』『ロボット』と組み合わされた、紛れもない『スポーツ』ものである本作を読む時、そこには手放しで「好き」とか「面白い」とか言えない微妙な感情が渦巻く事になる。

 以前書いた1巻の感想を読み返すと、その辺りの機微が自分の中で処理しきれていなくて、どこか「ねじれた」文章になっている。オリンピックの舞台で活躍するスポーツ選手達の姿は見る者の心を打つ。でも、自分が感情移入してしまうのは、どうしても『競争に敗れた側』なのだ。プロになれなかったかつての野球少年の様に、夢半ばにしてそれを諦めざるを得なかった人の側なのだ。

 自分の夢が叶わなかったのは、努力が足りなかったから。
 自分が羨む場所に自分以外の誰かが立っているのは、その人が自分よりも努力を住み重ねて、自分の力でその居場所を掴み取ったから。
 自分が今いる場所に不満があるのだとしても、それは全て自分の責任で、他の誰かを責められる事ではない。それは自業自得で、身から出た錆で、「1+1=2である」という事と同じ位動かし難く、自明な事なのだ。

 スポーツものを読むと、そういう当たり前の事が全部胸に刺さって来る様な気がする。

 そういう時、自分は完璧じゃないから、他人を妬んだり自分を蔑んだりしてしまう。正しく努力した者が勝者になり、結果として敗者が生まれるというだけのシンプルな話なのに、それを潔く受け止めるという事が出来ない。つい『敗者の弁』を述べたくなってしまう。言い訳がましい事をつらつらと書いてしまいたくなる。

 自分が好きなBUMP OF CHICKENの曲に『才悩人応援歌』という歌があって、その歌詞には『得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは それを自分より 得意な誰かが居たから』というものがある。

 「才能が無かったんだよ」っていうのは、努力が足りなかった人間が口にする一番ダメな負け台詞なのだけれど、それは言う側の当人が一番分かっていて、それを口にする度に一番傷付くのは自分なんだと思う。だから『才悩』なんであって、勝者になれなかったからといって止める訳には行かない、途中で降りる訳には行かない人生を続けて行かなけりゃならない悩みがいつもつきまとう。その途中で、本作の様な物語との出会いがあって、自分はまた複雑な思いを抱くのだ。

 自分はもう、努力して勝利を掴む主人公に感情移入して、それを素直に自分の力に変えられる様な年齢を過ぎてしまっているのかもしれない。自分の年齢は、本来ならもうとうに何らかの結果を掴んでいなければならないものだから。だからもっと若い、本来ライトノベルがメインの読者層として考えている若者世代が本作を読んだ時に抱くであろう素直な感想とは異なる部分で引っかかりを感じるのだろうと思う。それは『嫌い』でもなければ『辛い』でもない、言葉にする事が難しい感情だ。自分は紛れもなく本作が好きなのだけれど、好きとか面白いとか、それだけでは済まされない感情が裏側に張り付いている。

 努力する事。勝利を掴む事。主人公が真っ直ぐだからこそ、その物語を受け止める自分の側の曲がりくねった様が浮き彫りになるのだろうか。読み終えて、そんな事を思った。

 

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人が思いを伝えるという事・藻野多摩夫『オリンポスの郵便ポスト』

 

 最近また『ライトノベル定義論』的な流れをTwitter上で見かけて、自分もいくつかツイートをしたのだけれど、その時は書かなかった事で、自分が「ライトノベルとその他の作品」を分けて考えている事がひとつあったなと思う。本作を読んでいてその事に思い至ったのだけれど、それは「特にライトノベルの公募新人賞を受賞した作品を読む時は、その時点での作品の完成度の高さよりも、作家の将来性を期待している」という事だ。

 本作は、第23回電撃小説大賞で選考委員奨励賞を受賞した作品だ。
 舞台は火星。人類が地球から火星への本格的な入植を開始してから200年後の世界。しかし、火星の惑星改造(テラフォーミング)という壮大な計画は、80年前の大災害と、それが引き金となって発生した半世紀に及ぶ内乱で頓挫してしまっている。通信施設の破壊により母星である地球との連絡手段を失ったのみならず、交通網の寸断、電子メールや電話といった通信手段の喪失によって、長距離の情報伝達を昔ながらの手紙に頼るしかないまでに技術レベルが後退した世界。地球からの連絡もなく、新たな入植者がやって来る事もなく、徐々に大気が失われ、死の星に戻りつつある火星から脱出する術もない。そんな静かに滅びへと向かう星の上で生きる人々の姿を本作は描く。

 火星で長距離郵便配達員(ポストマン)として働く少女、エリスは、ある事情から都市伝説として言い伝えられている『オリンポスの郵便ポスト』を目指す事になる。「オリンポス山の天辺にある『オリンポスの郵便ポスト』に投函された手紙は、神様がどこへでも、誰にでも届けてくれる。仮にそれが天国でも」というおとぎ話。そのオリンポスの郵便ポストまで「自分を届けて欲しい」と告げる『郵便物』は、機械の身体を持つサイボーグ。『レイバー』と呼ばれる、一見古風なロボットの様な外見をした依頼人、ジョン・クロ・メールはエリスにこう告げるのだ。

 「私は自分の死に場所を探しているのです」

 ポストマンの少女、エリスと、郵便物であるクロの道行き。存在すら疑わしいオリンポスの郵便ポストを目指す旅は、どんな結末を迎えるのか。

 通読して、綺麗に整った物語というよりも、手触りがまだ少しゴツゴツとした、磨かれる前の原石の様な粗さがある物語である印象を受けた。読んでいて疑問を感じる設定や、物語の展開の中で引っかかりを覚える箇所もある。作者が語りたいテーマも目一杯詰め込まれている。だから全体の印象は、まだ粗い。物語として形を整えるならば、きっとまだ削らなければならない箇所が多いのかもしれない。

 しかし自分は、本作はこれで良いのだと思う。ライトノベルの公募新人賞に応募される作品、そして受賞した作品として読む時、この『粗さ』が今後どう磨かれて行くのかという期待感があるからだ。

 ライトノベル作家としてデビューし、その後一般文芸の世界に越境して行った作家は多い。これを「ライトノベル作家としてデビューして実力を付けて、より高いステージに上って行ったのだ」などとしたり顔で言うと、まるでライトノベルが一般文芸よりも稚拙なものであるかの様な誤った印象を与えかねないのだが、それでも敢えて書くならば、ライトノベルの公募新人賞が作家としての登竜門の役割を果たしている側面も確かにある。そこからライトノベル作家として同じ戦場に留まって書き続ける作家もいれば、一般文芸の世界に軸足を移して行く作家もいる訳だが、その出発点となる作品、言ってみれば「始めの一歩」の作品として見た時、作者が本作に込めたテーマは正しいと思う。

 言ってみれば本作は、『人が思いを伝える事』を主題にしているのだろうと思う。

 今を生きている自分達が、他者へと気持ちを伝える為のコミュニケーションもそうだし、もっと時間軸の幅を広げて考えるならば、今を生きる自分達が先達からどんな思いを引き継ぎ、後世に何を遺そうとするのか、どんな生き様を選ぶのかという事もそうだ。また人の生き様を描くという事は、人がどう生きるべきなのかという価値観を問い直す事でもある。そして、それらは全て『人が思いを伝える事』を軸として語る事が出来るテーマだと思う。

 『人が思いを伝える事』というテーマを語る時、自分達はその思いを伝えようとする側、発信者に目を向けがちだと思う。手紙を書く側、小説を書く作者、SNSでつぶやきを発する側、世の中に対して声を大きくする指導者や為政者。彼等に目を向ける事は間違っていない。ただ、思いというのは発信されただけでは当然伝わらないものであって、そこには受け手がそれらの思いをどう受け止めるのかという事が表裏一体の主題としてある。そして、その中で人の思いが時にすれ違ってしまうという悲しさも。

 また、思いの発信者であり受け手でもある自分はその中でどの様に振舞うのか、生きるのかという主題も切り離せないものとして同じ場所にある。

 一作のライトノベルに詰め込むには大きすぎるきらいがあるテーマ。でもそれに取り組もうとする作者の気概が、自分は好きだ。もちろん「作家が作品を通して読者に何を伝えようとするのか」という事も、『人が思いを伝える事』というテーマの中に含まれる訳で、それは作家が作品を発表して行く中で最後まで模索して行く事になるだろう課題でもあるのだから。

 作品が出版されるという事は、作者が『人が思いを伝える事』から逃げなかったという事だ。だから受け手である自分もまた、なるべく雑な語り方にならない様にしたいと思う。そして自分が作者の次の作品に触れる機会があれば、読者としては嬉しい。

 

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想像力を刺激する言葉の技巧・オキシタケヒコ『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』

 

 人間の想像力、特に作家の想像力というのは凄いものがあるな、という『恐れ』を読者に抱かせるに十分な作品。ちなみに自分は『筺底のエルピス』シリーズを未読だった事もあり、本作が初オキシタケヒコ作品となった訳だけれど、相変わらず本読みとしては基本が抜けているというか偏食と言うか。まあそれはさておき、小説という作品形態が持っている底力を見せられた様な気がした。

 最近は漫画化、映画化、アニメ化等、小説を原作とする作品も相次いで発表されるけれど、どれも原作の魅力をいかに損なわずに別媒体に落とし込むか、そして別媒体の作品として発表する事で新たな魅力を開拓できるかという点に苦心している気がする。本読みの末席を汚す雑食系本読みとしては、それはそれで別の角度から作品を楽しめる部分もある訳だが、実際『この表現は小説ならでは』という『技』というか、技巧を見せられるのはもっと楽しかったりする訳だ。そして本作にはそうした技が凝らされている。その上で精緻に、そして幾重にも張り巡らされた伏線が次第に明らかにされて行く様は、本読みをやっていて良かったと思える楽しみを与えてくれるだろう。

 では具体的に、その小説ならではの技とは何かというと、ここで詳細を語ってしまう事は野暮なのでなるべく避けたいのだが、一般論として薄めて語るならば「日本語で書かれた書籍」という形式が可能にする技であり、日本語という言語が持つ特殊性を活かした記述の技という事になる。

 日本語で文章を書く場合、全てひらがなで書く場合と、漢字を織り交ぜる場合、更に漢字の読みにルビを振る場合など、実に様々な書き方をする事が出来る。他にも韻を踏むとか、同音異義語を駆使するとか、様々なテクニックがある。自分は海外文学を原書で読む程外国語に通じていないので比較は出来ないのだが、この書き文字の多様性を使った技は日本語独特なのではなかろうかと思う。

 仮にルビを駆使したとすれば、ライトノベルによく見られる様に、既存の言葉に全く異なる読みを被せて造語を作る事も容易い。やり過ぎると難読になるというかくどくなるというか、全体的に読み難い文章にはなるけれど。冲方丁氏が『ばいばい、アース』でやっていた『飢餓同盟(タルトタタン)』とか、やりようによっては既存の言語にあらゆる意味を上書きして行く事が出来るし、ひとつの言葉が持つ意味を多重構造化する事も出来る。

 また本作で効果的に使われているのは、意図的に句読点を廃したひらがな書きの文章だ。例えば章題には『うまれおちたるかうけうのひとつめざめたること』なるものがあるが、物語を読み進めるまでは、その内容が分かる様で分からない。読み解ける様で読み解けない。それがある程度読み進めて行く中で答えが開示されると、腑に落ちる様になっている。これは本作の登場人物のひとりであるツナが話す言葉にも使われていて、「せきついどうぶつあもんししどうぶつじょうこうちょうこうふくろうもくふくろうか」等と唐突に言われても、その言葉を聞いた主人公の逸見瑞樹――またの名をミミズク――ではないが、まるで呪文か何かにしか聞こえない(読めない)。ただこれにも、注意深く読むと答えは用意されているし、後々意味が明らかにされる事もある。

 言葉の選び方、音、言い回し。それらが読者に与える情報を制限し、誘導し、やがて解に導く。その技は小説という、言葉と文字を駆使する媒体でなければ再現する事が難しい。であるが故に、それが読後の満足感というか、楽しさに繋がっている気がする。

 古い屋敷の座敷牢に住まう少女、ツナ。その少女と出会い、以来怖い話を聞かせる為に屋敷を訪れる事になるミミズク。二人の物語は、繋がる縁によって、そして作者の巧妙な語りによって広がりを見せて行く。座敷牢の暗がりの中での密会の様だった世界の有り様が、どんどん広がって行き、それまで点と点だったものが線で結ばれ、見えなかった世界が見える様になる。伝わらなかった言葉の意味が開示され、読者の視点が高みへと引き上げられる。良い意味で翻弄される。そうした先に開示される本作の世界観は、怪談のそれではない。もっと広い、人間社会の上部構造へシフトして行く。この広がりの持たせ方は、凄く面白い。単純に楽しいし、興味深くもある。読者によっては何か教訓めいたものをその中に見る事も可能だろう。自分達の刹那的な享楽の裏側にあるものが何なのか。その果てにある世界が、どれだけ荒涼としているのか。そんな風に。

 小説を読むという事。文章を目で追い、そこから読み取れるものを自分の頭のなかで想像して膨らませるという事。人間が持っているそうした『想像力』というものが本作のひとつの鍵になっている様に、読者は様々な想像を巡らせる事で本作の本質に迫って行く事が出来る。その体験は読書ならではのもので、これだから本読みはやめられないのだと自分は思う。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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