想像力を刺激する言葉の技巧・オキシタケヒコ『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』

 

 人間の想像力、特に作家の想像力というのは凄いものがあるな、という『恐れ』を読者に抱かせるに十分な作品。ちなみに自分は『筺底のエルピス』シリーズを未読だった事もあり、本作が初オキシタケヒコ作品となった訳だけれど、相変わらず本読みとしては基本が抜けているというか偏食と言うか。まあそれはさておき、小説という作品形態が持っている底力を見せられた様な気がした。

 最近は漫画化、映画化、アニメ化等、小説を原作とする作品も相次いで発表されるけれど、どれも原作の魅力をいかに損なわずに別媒体に落とし込むか、そして別媒体の作品として発表する事で新たな魅力を開拓できるかという点に苦心している気がする。本読みの末席を汚す雑食系本読みとしては、それはそれで別の角度から作品を楽しめる部分もある訳だが、実際『この表現は小説ならでは』という『技』というか、技巧を見せられるのはもっと楽しかったりする訳だ。そして本作にはそうした技が凝らされている。その上で精緻に、そして幾重にも張り巡らされた伏線が次第に明らかにされて行く様は、本読みをやっていて良かったと思える楽しみを与えてくれるだろう。

 では具体的に、その小説ならではの技とは何かというと、ここで詳細を語ってしまう事は野暮なのでなるべく避けたいのだが、一般論として薄めて語るならば「日本語で書かれた書籍」という形式が可能にする技であり、日本語という言語が持つ特殊性を活かした記述の技という事になる。

 日本語で文章を書く場合、全てひらがなで書く場合と、漢字を織り交ぜる場合、更に漢字の読みにルビを振る場合など、実に様々な書き方をする事が出来る。他にも韻を踏むとか、同音異義語を駆使するとか、様々なテクニックがある。自分は海外文学を原書で読む程外国語に通じていないので比較は出来ないのだが、この書き文字の多様性を使った技は日本語独特なのではなかろうかと思う。

 仮にルビを駆使したとすれば、ライトノベルによく見られる様に、既存の言葉に全く異なる読みを被せて造語を作る事も容易い。やり過ぎると難読になるというかくどくなるというか、全体的に読み難い文章にはなるけれど。冲方丁氏が『ばいばい、アース』でやっていた『飢餓同盟(タルトタタン)』とか、やりようによっては既存の言語にあらゆる意味を上書きして行く事が出来るし、ひとつの言葉が持つ意味を多重構造化する事も出来る。

 また本作で効果的に使われているのは、意図的に句読点を廃したひらがな書きの文章だ。例えば章題には『うまれおちたるかうけうのひとつめざめたること』なるものがあるが、物語を読み進めるまでは、その内容が分かる様で分からない。読み解ける様で読み解けない。それがある程度読み進めて行く中で答えが開示されると、腑に落ちる様になっている。これは本作の登場人物のひとりであるツナが話す言葉にも使われていて、「せきついどうぶつあもんししどうぶつじょうこうちょうこうふくろうもくふくろうか」等と唐突に言われても、その言葉を聞いた主人公の逸見瑞樹――またの名をミミズク――ではないが、まるで呪文か何かにしか聞こえない(読めない)。ただこれにも、注意深く読むと答えは用意されているし、後々意味が明らかにされる事もある。

 言葉の選び方、音、言い回し。それらが読者に与える情報を制限し、誘導し、やがて解に導く。その技は小説という、言葉と文字を駆使する媒体でなければ再現する事が難しい。であるが故に、それが読後の満足感というか、楽しさに繋がっている気がする。

 古い屋敷の座敷牢に住まう少女、ツナ。その少女と出会い、以来怖い話を聞かせる為に屋敷を訪れる事になるミミズク。二人の物語は、繋がる縁によって、そして作者の巧妙な語りによって広がりを見せて行く。座敷牢の暗がりの中での密会の様だった世界の有り様が、どんどん広がって行き、それまで点と点だったものが線で結ばれ、見えなかった世界が見える様になる。伝わらなかった言葉の意味が開示され、読者の視点が高みへと引き上げられる。良い意味で翻弄される。そうした先に開示される本作の世界観は、怪談のそれではない。もっと広い、人間社会の上部構造へシフトして行く。この広がりの持たせ方は、凄く面白い。単純に楽しいし、興味深くもある。読者によっては何か教訓めいたものをその中に見る事も可能だろう。自分達の刹那的な享楽の裏側にあるものが何なのか。その果てにある世界が、どれだけ荒涼としているのか。そんな風に。

 小説を読むという事。文章を目で追い、そこから読み取れるものを自分の頭のなかで想像して膨らませるという事。人間が持っているそうした『想像力』というものが本作のひとつの鍵になっている様に、読者は様々な想像を巡らせる事で本作の本質に迫って行く事が出来る。その体験は読書ならではのもので、これだから本読みはやめられないのだと自分は思う。

 

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まだ機械にはなりたくない僕等は・水野昴『偽る神のスナイパー 3』

 

 思えば1巻の感想で『個人的にはザイシャが「人間として」幸福になる事を願ってやまない』と書いたのが2016年の4月だった。その後2巻を挟んで、今回この3巻をもって完結する事になった物語が、果たして自分が望んだ様なハッピーエンドを迎えられたのかどうか。それは各々が本作を手に取って自分で確かめて頂くのが良いだろうと思う。ただ、それだと本作の感想として片手落ちなので、無粋を承知で半分以上答えを言ってしまうならば、個人的には良い結末だったと思う。

 あくまでも自分の場合だけれど、特にライトノベルについては『シリーズが完結するまで評価を固める事が出来ない』というもどかしさがある。単巻で完結する作品と違って、ライトノベルの場合は何冊かシリーズ作品として刊行を続けて行く中で、ひとつの大きな物語が形成される事が半ば前提としてあるので、物語の着地点を見定めるまでは自分の中での評価も固め難いのだ。1巻を読んだ時点で引き込まれる物語もあれば、シリーズが続いて行く事で次第に魅力が高まって行く作品もある。そういう意味では、ライトノベルは連載を続けて行く事が前提の漫画にも似ている。巻数を重ねる事で作品は変化して行く。それは進化であり、深化でもある。また作品のテーマも次第にスケールが大きくなって行く気がする。それを物語の結末に向けて拡散させる事無く収斂させて行かなければならない創作活動というものは、やはり難しい。まあ難しいからこそやり甲斐があるのだろうし、読者としても作品が良い結末を迎えられる事は読んでいて幸福な事だと思う。

 話を本作に戻す。本作もまた1巻の頃は、心に傷を負った少年少女が互いの過去を乗り越えて新たな一歩を踏み出せるのかどうかという物語だった。それがこの最終巻では、人間が生きて行く上での幸福とは何か、そして人のあるべき生き方とは何かという所までテーマを広げている。それは登場人物の成長であると同時に、作者の中で作品自体が育って行った結果であるのだろう。大きく広げた物語は畳む事が難しくなるのが常だが、本作ではその着地点をぶれさせない為に、先に書いた少年少女の物語、その二人の絆の物語を軸にしている。様々な困難が待ち受ける中で、主人公である吹芽とザイシャは何を求め、どう生きて行こうとするのか。

 人間のあるべき生き方を探るにあたって、何が人を人たらしめているのかという問いを避けて通る事は出来ない。それは本作でも同じだ。ある意味でゾンビの様に人ではなくなってしまった存在=レヴナントが闊歩する世界で、人とレヴナントを分かつものとは何か。ザイシャや吹芽がそうである様に、兵器として、或いはその使い手として、普通の人間の枠から半歩踏み出してしまった者とレヴナントを分かつものは何なのか。それを明らかにする為には、やはり『心』という捉え所のないものに迫らなければならない。それには多大な労力が必要になる。何せ自分でも自分自身の心なんて掴み切れないのだ。その移ろい易い心を捕まえて、何が大事なのかを洗い出し、物語として定着させなければならない。本来架空である登場人物達の心が、作り物めいた、テンプレートを書き写した様なものになってしまわない様に肉付けをして行かなければならない。そしてその事を通してでしか、本作が扱うテーマの結末に至る事は出来ない。

 それが成功しているかどうか。それはこの物語の結末を読んだ読者が判断する事だ。

 しかし、人間とはつくづくままならないものだと思う。
 心は脆い。そして移ろい易い。仮にそんな柔らかい部分を最初から持たなければ傷付く事など無いだろうに、後生大事に抱えていないと生きて行けないものだから、誰も彼も大なり小なり傷だらけだ。仮に自分がロボットだったらと仮定してみる。どんな仕事を振られても文句も言わず、ただ命令を実行するだけのロボットだったら楽だろうと思う。もっとも、もしも本当にそんな有様だったら楽だの苦だのと感じる部分も無い訳だから、どんなに苦しかろうが何程の事もないのだろう。

 感受性や心とは、酷い言い方をすれば人間が持っている脆弱性だ。だからいつか、それらが不要だとされる世界が来るのかもしれない。或いは、それらを切り捨てなければ生きられない様な過酷な時代が来ないとも限らない。誰にも未来の事は分からないのだから。それでもその脆弱性を、心を切り捨ててしまった人間を人間と呼んで良いのかという疑問符は消えないのだろう。何となればその弱い部分、脆い部分に宿っているものをこそ、自分達は『人間性』と呼んでいるのだろうから。それを失った時、或いは捨てた時、その無くしたものの方こそ大事なものだったと自分達は気付くのだろうか。気付く事が、出来るのだろうか。

 現実は厳しい。その中で生きようとする時、心は煩わしい。その弱さ、脆さは人を苛む。それでもなお生きていこうとする動機、困難に立ち向かおうとする気概は、実はその脆い心の内側にしか存在しないのではないか。それは矛盾している様で、こう言っては何だが少し可笑しい。弱い筈の心から、自分達は次の一歩を踏み出す為の力を汲み出している。そして、それを失って自動機械の様になる事を、自分達はまだ望んではいないのだろう。本作で吹芽とザイシャが選んだ様に、悲しみもないが喜びもない世界より、多くの悲しみの中から喜びを拾い集めようとする生のあり方を、人は『生きる』と呼ぶのだろうから。

 

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塀の中の自由、塀の外の不自由 アン・ウォームズリー:著 向井和美:訳『プリズン・ブック・クラブ-コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』

 

 この本はタイトルの通り、刑務所の中で受刑者達を集めて開かれる読書会について記したノンフィクションだ。受刑者に配慮して人名やプロフィール等は一部脚色されているが、創作された登場人物は一人もいない。
 著者は実際にこの刑務所読書会の為の選書に関わり、自らも刑務所に足を運び、銀行強盗から麻薬の違法売買、果ては殺人といった罪で服役している受刑者達と本を通じて交流した。その経験をまとめたのが本著である。

 実は、自分が勤めている会社でも今年から読書会が毎月行われる事になった。その事もあって本著を手にした訳だが、実は自分は、自分達の読書会が刑務所の中のそれよりも自由がないものである事を思い知らされて既に辟易している。

 自分達の会社で催される読書会とは、ある月刊の経済誌の中から決められた箇所を読んで感想を書き、社員同士少人数のグループを組んで互いに発表するというものだ。そしてその経済誌の中身といえば、経営論であったり、著名人へのインタビューであったり、成功を収めた経営者達の対談であったりする。主催者は社長だし、読書会の進行役はその月刊誌を出版している出版社の社員だ。この時点で、この読書会の問題点がいくつかある。それは『感想の「正解」が既に決められている事』と『否定的な感想を述べる自由が無い事』、そして『人事評価を握っている社長が主催している事』だ。

 経済誌を読んで感想を書いて来る事が決まっている時点で、社長が自分達に求めている感想とは「~の部分を読んで感銘を受け、これまでには無い気付きを得る事が出来ました。これを今後の仕事の中でも活かして行こうと思います」というものでしかない事は明白だ。自分は本の感想を書き慣れているし、相手がどんな感想を期待しているかも容易に察しがつくし、その期待される感想=正解に沿った文章を書けと求められればいくらでも応じる事が出来る。ただ、それに何か意味があるのか。正直苦痛でしかない。

 一応、従業員同士で感想を発表し合う事で交流を深め、互いの存在に関心を持つ様に、また社員間の連帯を深める様に、というもうひとつの目的はある。ただそれは副次的なものであって、会社が求めている社員教育の一環としての読書会の効能としては、読書会を通じて社員が真面目に働く様になり、生産性が上がり不良率が下がり売上と利益が上がって会社が儲かる事が全てである様に思う。そしてその読書会における発表内容を、自分達の人事評価の一切を掌握している社長と出版社の社員に聞かれているという状況で、否定的な感想を述べる自由がある訳もない。ちなみにこの月刊誌の購読費用は福利厚生費として計上されているという話を聞いたが、「これが福利厚生かー日本語って難しいね」という印象だ。

 さて、翻って本著で語られる刑務所読書会だが、この読書会の良い点は『受刑者達の更生と社会復帰を促す為の教育の一環として仕組まれているもの「ではない」事』だ。この読書会を主催しているのは志を持ったボランティアであり、刑務所の所長でもなければ看守でもないし、もちろん政府でもない。その目的は彼等を更生させる為の教育というよりも、彼等の『自由』を――塀の中で大幅に制限されているであろう自由を――本に対する感想を述べるその一時であろうとも守り、ひいては彼等の尊厳を守る事にある様に思う。受刑者の尊厳、犯罪者の自由などと言うと「そんなものを守ってやる必要がどこにあるのか」という意見が出るだろう。自分も半分はそう思う。しかし、進む道を誤ってしまう人間の多くが、罪を犯す前からそれらの多くを与えられて来なかった、あるいは選択肢を奪われて来たという事実は事実としてあるのだろうとも思う。

 そんな読書会であるから、そこで語られる感想には「求められる正解」というものは存在しない。課題図書としては様々な小説があり、自伝やドキュメンタリーの様なノンフィクションもある。登場人物や著者に感情移入出来ない事もままあるだろう。その時は「自分には受け入れられなかった」と正直に述べる自由が彼等にはある。誰に遠慮する事もない。

 もちろん、ボランティアとはいえ読書会を主催し、選書する側の人間からすれば、受刑者達に楽しんでもらえるかどうか、興味深く読んでもらえるかどうか、どんな本を選べば読書会での意見交換が有意義なものになるかという計算はある程度しているし、彼等受刑者から引き出される感想に対しての『期待』はある。思惑もある。ただそれは『正解』ではない。どんな意見があってもいい。自分が選んだ本を「つまらなかった」と言われるのは選書した側からすれば期待外れの反応かもしれないし、残念な事かもしれないが、場合によってはそれでも構わない。そうした『自由』を持った気風がこの刑務所読書会の中にはある。自分の会社で行われている読書会には無いものが。

 自分はこれまで、読書という体験をあまり他人と共有して来なかった。友人と映画を観に行って、互いの感想を述べるという事は自然にしていたのに、である。ここにこうして本の感想を書く事を始めてから、気付けば結構な年数が経ったが、それはこの先の自分に宛てた備忘録の様なものであって、他者に対する感想の発表や共有という意識は薄い。自分にとって読書は本と読者との一対一の関係の中に集約されるものであって、読書会の様な形で誰かと共有する体験ではなかったのだと思う。ただ本著を読み、もしこの先自分にも機会があって、誰かと同じ本を読み、忌憚なく感想を述べ合う事が出来たら、それはもしかすると自己完結する読書とはまた違った楽しみになるのかもしれないとは思った。

 自由である事。文字にすればたったこれだけの事を守り通す為には、越えて行かなければならないいくつものハードルがある。自由を守る事の難しさを乗り越えた先に、ようやく本当の意味での交流が成されるのだろう。受刑者達が読書会という交流の場を得た事で、刑務所の中で作られた小さなグループ、例えばムスリムのグループであったりヒスパニックのグループであったり、黒人のグループであったりといった小集団の枠から離れて、異なる立場と境遇を生きている他者との交流を持てるまでに至る経緯は、他者からの強制や強迫というものが日常的に蔓延しているこの社会の窮屈さと『生き苦しさ』を浮き彫りにしている様に思う。

 塀の中の自由。塀の外の不自由。そんな言葉を思い浮かべながら、自分は与えられた課題の為に「求められる正解」をなぞる様な感想を書き始めようとする。苦痛で、実りがない感想を。

 

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人間を深く知れば知る程に・浅井ラボ『されど罪人は竜と踊る 19: 灰雪の蹉跌』

 

 帯には『2017年秋TVアニメ放送!!』という文字が踊っているのだけれど、いっその事アナピヤ編とかやってくれませんかねって無理ですかそうですか。

 まあアニメ化の話はさておき、自分はガガガ文庫に移籍してから『され竜』を読み始めた人間なので、読者歴は浅い。それでも既に19巻という事で、思えば結構な期間浅井氏の作品を読み続けていると言える。今回はシリーズの中で定期的に刊行される短編集形式の1冊となっているが、自分は浅井氏の書く短編が割と好きだ。上下巻構成のボリューム感溢れる長篇を読むのも好きだが、短編集では収録作毎に違った味わいが楽しめるので密かに楽しみにしている。

 さて、どんな作品であれシリーズが長期化してくると新規読者が入り難いのではないかと要らぬ心配をしてしまう。上遠野浩平氏の様に、ひとつのシリーズを延々と続けつつ、他のシリーズも並行して展開して行くタイプ(まあ氏の作品は全て繋がっているのでひとつの巨大なシリーズ作品と言えなくもないけれど)とは違い、浅井氏の場合は『され竜』以外に出版されているシリーズ作品が存在せず、しかも『Strange Strange』の様な独特な短編集は読者を選ぶので人に勧め難い。自分は好きだが。

 自分達が生きている現実世界に存在する諸問題を、ライトノベルの世界観に持ち込んで再構成する浅井氏の手腕は、かつて『暗黒ライトノベル』と称されたが、氏の書く小説が『暗黒』なのだとすれば、その黒さは現実の闇に起因するのであって、全てが氏の想像や妄想の産物ではない事を明記しておく必要があるだろう。例えば本巻に収録されている『少女たちの肖像』で描かれる『闇』は、現実の世界でもそこかしこに潜んでいる類のものだ。

 そうした闇を覗き込みたいという暗い欲求は、誰しも持っている普遍的なものの様で、このブログでもマイケル・ストーン氏の『何が彼を殺人者にしたのか』という本を紹介した事があるのだが、かなり昔に書いた記事であるにも関わらず、今でも定期的に読まれている。それは怖いもの見たさが大半なのだろうと思うが、人が殺人者の履歴や犯罪者の動機を知りたがるのは、自分の中に、というかもっと漠然と、人間というものの中にどれ程の闇があるのかという事を知りたいと願うからなのだろう。

 実際、その闇は底無しなのだろうと思う。ただ、人が『底無しの闇』と聞いた時に『実際に想像する闇の深さ』には個人差がある。そして、人間というものを深く知れば知る程、その想像できる『底』は深さを増して行く。だからだろう、人間の闇を知ろうとする行為には果てが無い。どこまでも深く降りて行ける。

 浅井氏の小説が暗黒とされるのは、氏が想像できる『底』が他者のそれよりも深い位置にあるからなのではなかろうか。そこから醸成される闇の色濃さが、氏の作品の持ち味であると自分は思っている。

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弱い者達が夕暮れ、更に弱い者を叩く・安里アサト『86―エイティシックス―』

 

 “豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない。


 故に、
 言葉の違う誰かを、色の違う誰かを、祖先の違う誰かを人の形の豚と定義したならば、
 その者達への抑圧も迫害も虐殺も、人倫を損なう非道ではない。”


 物語の冒頭で、本作の主人公の一人であるヴラディレーナ・ミリーゼの『回顧録』からの引用文として示される上の一文が、この物語を通して語られる事の本質を表している様に思う。

 北朝鮮がまた弾道ミサイルを発射したというニュース速報を聴きながら、本作を読んでいた。『平和な日本』というフレーズがまだ生きているのかどうか知らないが、隣国に目を向ければまだ休戦状態のまま南北に分断された国家が互いに睨み合う現状があり、また遠くシリアへ目を向ければ、政府軍と反政府勢力がそれぞれ他国の後押しを受けて代理戦争に近い泥沼の殺し合いを続けている。そんな中、日本では南スーダンへのPKO派遣の正当性を巡って、そこで「戦闘があったのかどうか」という問題で言葉遊びの様な答弁が繰り返されている。日本政府がやっている言葉遊びは、「『人間とみなされない者』を搭乗させれば、それは自律無人戦闘機械(ドローン)である。よってドローンがどれだけ損耗しようが自国の戦死者はゼロである」という、本作に登場するドローンの定義と同程度には力技だ。

 似た様な所では、民間軍事会社(PMC)のオペレーターが現地で戦死したり負傷したりしても、それは正規軍に属する要員ではないので公の戦死者数や負傷者数にはカウントされないという、今で言うところの『オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)』にも通じる様な薄気味の悪い『事実』がある。

 これらは相手に4本の指を立てて見せ、「この指は何本だ」と問い続ける行為にも似ている。国家が、或いはそれに代わる権力構造が、4本の指を5本だと言うならば、その問いに答える者は「指は5本です」と『正しく』答えなければならない。有色人種を劣等人種であり「人間ではない、豚である」と定義する国家では、「実際には人が乗っているドローン」という矛盾がまかり通る。“豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない”からだ。

 その『豚』の側に立たされた青年達と、後方から彼等を指揮する事を命じられた『人間』側の少女が出会う時、物語は始まる。

 かつての敵国が遺した本当の意味での自律無人戦闘機械群<レギオン>から国土を防衛する為に、豚として扱われる有色人種――本来であればかつての同胞国民――をドローンに乗せてこれに対抗する共和国と、その支配層として城塞都市に引き篭もる白系種(アルバ)。史実におけるナチス・ドイツの優生学並みの隔離政策で都市を追われ、実質、戦場以外に生きる場所を持たず、人としても扱われなくなった『豚』達は、白系種を現実を知らない『白ブタ』と揶揄する。兵器の性能においても、数においても劣勢の共和国は、その優生学的な選民思想故に現実を見る事をしない。「優良種である自分達が、劣等種である敵国の遺物相手に苦戦を強いられているなどという事があってはならない」からだ。結果性能に劣る共和国の有人機<ジャガーノート>はドローンと偽られ、国内向けにはいわゆる『大本営発表』が繰り返される。「我が方の戦果は華々しく、損害は軽微、人的損害は本日も皆無である」と。

 現実から目を逸らし、自らの人権無視を正当化し、見たいものだけを見、聞きたいものだけを聴き、信じたいものだけを信じて生きて行く事。それがいつまでも続くものではない事に薄々気付きながらも、人はそれを止める事は出来ないのか。その人間の愚かさは、かつてTHE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』の中で歌った様に明らかだ。

 “弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく”

 弱い者が、追い詰められた者が、自分達の尊厳を守ろうとして更に弱い者を探し出して叩く事を始める。誰かに石を投げられた者が、その石を拾って更に自分よりも弱い誰かに投げ付ける。今この現実の世界で移民や難民を排斥しようとしている誰かは、決して選ばれた優良種でも特権階級でもない。むしろ弱い立場の人々だ。ナショナリズムに縋り付けば、自分の自尊心は満足させられるから。自分より劣った誰かが、自分より可哀想な誰かがいる事は、報われない自分の境遇を慰撫してくれるから。

 自分達は誰でも気付いてはいるのだろう。そうした愚かな振る舞いは止めなければならないという事に。しかし、知っていてもそれを止められないのは、止めようとしないのは、社会という大きな構造が、それを是として走っているからであり、その大きな流れに個人として逆らう事が無駄だと思っているからだ。

 繰り返すが、この現実では弱い者達が夕暮れ、更に弱い者を叩く。その音が響き渡る時に、社会の中で、また世界の中で個人がどう生きる事を選ぶのか。選べるのか。選ぶべきなのか。本作はその事を自分達に問うている。

 

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Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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