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声なき者の声を聞く為に・酒場御行『そして、遺骸が嘶く ―死者たちの手紙―』

 

 自分には、戦争について知りたいという欲求が、常にある。
 それがなぜなのかはよく分からないが。

 別の場所で、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏の『戦争は女の顔をしていない』を原作にした小梅けいと氏の漫画について書いたけれど、それ以外にも自分は何かというと戦争について書かれた本を読んでいる。

 フィル・クレイ氏の『一時帰還』
 ブライアン・キャストナー氏の『ロングウォーク 爆発物処理班のイラク戦争とその後』
 クリス・カイル氏の『アメリカン・スナイパー』
 ジョシュア・キー氏の『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』
 リー・カーペンター氏の『11日間』
 デイヴィッド・フィンケル氏の『帰還兵はなぜ自殺するのか』

 ざっと過去記事を振り返るだけでも、これだけの本が出て来る。フィクションもあり、ノンフィクションもある。ライトノベルを含めるともっと増えるだろう。でも共通しているのは、「実際に戦地に行った兵士はそこで何を見て、何を感じたのか」という事に関する関心が強いという事かもしれない。

 戦争について語る時に、自分の視点がどの位置にあるかという事を気にしている人はどれだけいるだろうか。自分自身は、その事がいつも気にかかる。

 国家対国家というレベルで、それぞれの国の指導者や軍部、そして国民がいかなる思惑を持って行動し、結果として情勢がどの様に推移し、どの国が勝ち、どの国が負け、戦後処理がどの様に行われたのかという点について、自分なりに調べ、学び、意見を持つという事は大事だ。でも「戦争とは結局何だったのか」という事を振り返って考える時、自分はもっと個人の目線まで降りて行ってしまう。悪く言えば、近視眼的なものの見方をしてしまう。

 つまるところ自分にとって戦争とは『戦地に送り出した家族が、友人が、恋人が帰って来ない事』であり、『帰還兵が帰国後に家族の死を知らされる事』であり、『体と心を病んだ人々が社会の中で居場所を失って行く事』なのだろうと思う。それらの『喪失』が、自分が考える戦争の姿なのかもしれない。

 そして戦死者にとっては、『自らの言葉でその思いを伝える機会を永遠に失う事』でもある。でも、それでも彼等の『遺志』は遺る。手紙や遺品に宿り、もう言葉を発する事が出来ない戦死者の代わりに、その声を聞く者が現れるのを待ち続ける。そして本作で描かれる様に、その時が訪れれば、遺骸は嘶く。沈黙を破り、声なき声を上げる。

 本作は、架空の世界を舞台に、架空の戦争と、戦後を描いている。その戦争は第二次世界大戦を思わせる内容なのだが、かつて現実に同じ様な役割を担った人々がいた様に、『兵士達の戦死を遺族に伝える』という酷な役目を背負った一兵士、キャスケットの視点で物語が紡がれている。

 キャスケット自身も優れた狙撃兵として戦った過去を持ち、自らの目で見た戦争というものを持っている。自分の生い立ちや家族の事、戦友や上官の事、彼等との出会いと別れ。それら上手く言葉に出来ない思いを抱えている。そんな彼が陸軍遺品返還部に所属し、遺族を訪ねる姿を本作は描いて行く。それは自国民からも死神の様に忌避される役割だ。もしかしたら生きて再会できるかもしれないと思っている遺族に現実を突き付ける事になるからだ。戦死者がどんな最後を迎えたのか。それを告げる役目は重い。

 またそこにあるのは当然綺麗な物語だけではない。美辞麗句では取り繕う事が出来ない人間の本性や醜悪さを煮詰めた様なエピソードも中にはある。でもそうした『自分達が抱える後ろ暗い部分』が暴かれるのが戦争なのだとすれば、戦死者の人生を悲劇として『漂白』してしまって、汚れた部分を消し去った上で標本にして、『あの戦争の悲劇を忘れない』とか、逆に『英霊達の尊い犠牲に感謝しよう』と祭り上げる行為を「戦争を語る事」として無批判に受け入れて良いのかという恐れが、自分の中にはある。

 戦争について語る時、自分達はつい為政者の様な視点で語ってしまいがちだと思う。相手の国がどれだけ許されざる敵であり、憎むべき相手であるかという事について、まるで一人ひとりが国士にでもなったかの様に語る。自分達がそうした語り方をしてしまいがちなのは、そうする事は『辛くない』からだ。痛みを伴わない。ある種他人事の様に戦争を『分析』したり、『解釈』したりする余裕がある。その余裕が自分達の口を軽くさせるし、その高揚感が自分達を饒舌にさせる。

 でもいつか実際に戦争が起こったとすれば、現実の自分達にもたらされるのは『家族や友人、恋人が戦地に行ったきり戻らない』とか『自分自身が戦地に赴き、人間性を削られ続けるか、或いは戦死する』というどこまでも個人の身に降り掛かってくる身も蓋もない現実なのではないか。その時、かつて国士の様に国家や戦争を俯瞰して、言ってみれば他人事の様に語っていた自分自身がいたとすれば、自分達はその事をどう振り返るのだろう。

 だから自分は、あくまでも兵士達の個人的な戦争体験に執着するのかもしれない。

 彼等が何を思い、どんな風に生き、或いは死んだのか。

 それらの個人的な体験を積み重ねた先に、自分達が語るべき戦争が見えるのだろうと思うし、逆にそうしなければ、正しく戦争というものに向き合う事は出来ないのではないか。今は、そう思う。
 
 

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ジャンル : 小説・文学

綺麗事が現実になる、その日まで・根本聡一郎『宇宙船の落ちた町』

 

 書店に行くと、『郷土ゆかりの作家』を取り上げるコーナーがあったりする。自分は普段、あまりそうした郷土出身の著者による作品を読まないタイプなのだけれど、今回は違った。

 『宇宙船の落ちた町』というタイトル。帯には「どこを見ても刻まれている分断線に、生きづらさを感じる現代社会。」という一文がある。手に取ってみると、著者は福島県いわき市出身との事。自分は何か予感めいたものを感じて本著を購入した。
 買う予定の無かった本と『出会う』という体験が出来る。だから自分は書店に足を運ぶ。


 主人公の青砥佑太は、「宇多莉(うたり)町には何もない」と住民が揃って口にする様な田舎町で育った。だが14歳の夏、家の裏山で宇宙船の墜落を目撃した事で、彼の平凡な日常は終わりを告げる。

 宇宙船の墜落事故から10年後。宇宙船に乗っていたフーバー星人達は故郷へ帰る術もなく、次第に地球社会に溶け込んで行く。ただ、宇宙船墜落事故によって燃料=汚染物質が飛散した宇多莉には『危険区域』が設定され、住民は移住を余儀なくされていた。佑太もまた住み慣れた家を追われ、都市部で暮らし始める。高校へ進学し、大学を卒業したものの、これといった目的も無く、フリーターとして何とかその日暮らしをする佑太。その転機は突然訪れる。

 よく考えもせずに応募した、アイドルグループの握手会のスタッフとしての仕事。そのグループのトップアイドル、常盤木りさの『剥がし』役として彼女を間近に見る佑太に、他でもないりさから思いも寄らない言葉が投げ掛けられる。

 『宇多莉の方ですよね』
 『私を、宇多莉に連れてってください』

 りさの願いに動揺する佑太。帰れない故郷の事、墜落した宇宙船の事、宇宙人と地球人の間にある差別や偏見の事、そして自分自身の事。今まで目を逸らして来た事に、佑太は向き合う事になる。なぜりさは宇多莉に行きたいと願うのか。なぜ彼女は自分なんかを頼ったのか。そんな疑問を胸に抱いたままで。


 自分は福島県民だから言われなくても気付くし、そうでない人だってこのあらすじでピンと来るだろうけれど、この物語はエンタメ小説であり、ボーイミーツガールの物語であると同時に、現実に存在する様々な問題をフィクションに置き換える事で成立している。

 宇宙船の墜落事故は原発事故だ。だとすれば宇多莉町は福島第一原発が立地する大熊町や双葉町の事だろう。そして宇多莉町の住民が最初に避難するときわ市は、著者の出身地であるいわき市だ。宇宙人であるフーバー星人への差別や偏見は、原発事故から避難して来た人々への差別であり、外国人差別であり、生活保護受給者に代表される社会的弱者や少数派への差別でもある。

 自分達の社会は、様々な問題を抱えている。その問題に目を向ける事は大事だ。でも、原発事故や差別感情という『生の問題』を、そっくりそのまま、生のままで議論する事を、自分達はなぜか苦手としている。例えば戦争問題についてもそうだ。

 自分達が過去の戦争をどう受け止めて来たのかという事を考える時、夥しい数のアニメや漫画や映画、小説が思い浮かぶ。それは自分達が、過去の戦争をありのまま振り返って考え直す事を苦手として来た結果なのではないかと思う。

 虚構の物語に現実問題を投影するというワンクッションを挟む事で、ようやく自分達は戦争や差別や貧困という問題に向き合える様になるのではないだろうか。それは弱さや欠点、社会的な未熟さと呼ばれるものなのかもしれないけれど、だからこそ本作の様な物語が、まずは普通に物語として楽しまれれば良いなと自分は思う。

 例えば教科書的に『差別は良くない』と言われても響かない言葉が、物語の中で佑太やりさが感じる違和感や心の揺れ動きの中で、すっと読者である自分の心に入って来る瞬間がある。外国人差別という生々しい問題が「『宇宙人』『インベーダー』という言葉が差別用語になる一方、インベーダーゲームが取締対象とされて徹底的に回収された結果、逆に違法ダウンロードで大ブームになる」なんていう、いかにもありそうなエピソードに置き換えられる事で見えてくるものがある。そういう『物語化』が持つ力を借りた上で、現実を生きる自分達は、自分達が抱えている社会問題にようやく気付き、向き合う事が出来る様になる。

 現実に横たわる差別や偏見は根深い。戦争と同じ様に、人類史からそれらが消え失せた事はない。現実は物語の様にハッピーエンドを迎えない。そんな事は誰でも知っている。自分だって、他の読者だって、作者だって知っている。それでもなお、作者がこうした物語を紡ぎ、読者である自分がそれを読んだ上で願うのは、きっとこういう事だ。

 世界は、社会は、綺麗事で出来てはいない。だから綺麗事の方を信じるんだ。

 そう思わない事には、現実は少しもその綺麗事の方に近付いて行けない。

 本著の帯にある様に、現代社会にはそこかしこに分断線が引かれている。こんなもの誰が引いたのかと思うけれど、そんなの『自分達が引いた』に決まっている。他に誰が自分達の心に分断線を引けるだろうか。

 誰かが最初に線を引く。それを後に続く自分達が無意識に、無邪気に、悪気もなくなぞってより深い線にして行く。消えない線にして行く。それが続けば、その線はやがて谷にもなる。乗り越えられない断崖絶壁にだってなる。自分達はそんな社会が望みなんだろうか。

 世界は綺麗事で出来てはいない。だから本著を読んだとしても、すぐに分断線が消えてなくなる事はない。自分達がその線を自由に踏み越えて行き来する様な理想は、すぐには実現しない。いつかは実現するのかも分からない。自分達は相変わらずあっちこっちに線を引きまくって、その枠の中に引きこもって暮らす事を選び続けるのかもしれない。

 だから思う。本作の様な綺麗事が、綺麗な物語が、もっと世の中に溢れればいい。
 自分達が地面に引かれた線ではなく、そんな物語の方を見上げられる様になるまで。

 

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生まれてきた事が苦しいのは、自分達だけじゃない・大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』

 

 長らくこの場所を放置してしまいましたが、何とか生きております。
 別のブログを立ち上げて社会問題に言及するなんていうまあまあ「らしくない」事を始めてしまったせいでもあるんですが、昨今の社会は色々とおかしくて、つい口を挟みたくなってしまうというのもあります。後は加齢ですかね。

 加齢と言っても「歳をとって説教臭くなる」「老害化する」という悪い意味ではなく、何かこう『社会に対する責任』の様なものを感じる訳です。既に中年であり、この社会を構成する一人である自分には、「このどうしようもない社会が、どうしようもないままで放置されている事」に対する一定の責任があるという考え方がそれです。ただ、こんな考え方はそれこそ本著に登場する『最強のペシミスト』シオランからすれば、唾棄すべき考え方なのかもしれません。


“根源的なものを垣間みたければ、どんな職業にもたずさわってはいけない。一日中、横になったまま、嘆いたり呻いたりすることだ。……”
(『告白と呪詛』より)


 シオラン程ではないにしろ、自分だって横になって好きな本を一日中読み耽り、ああでもないこうでもないとあれこれ考えるだけで日々を暮らせないものかと考える訳ですが、残念な事にそれでは口に糊する事もできない訳で、シオラン本人が何とか社会と向き合いながら、自殺という救済を先延ばしにする様に今日をやり過ごし、晩年までを生き続けたのと同様に、今を生きているとも言えます。

 オタク会話で『働きたくないでござる』という言い回しがありますが、その怠惰がなぜ自分達を惹き付けるのかという事を真剣に考えると、シオランの思想に近付けるのではないでしょうか。それは、ペシミズムにおける「人生のむなしさ」という大きなテーマに繋がる考え方でもあります。

 ペシミズムとはそもそも何であるか、という説明は本著に譲るとして、この「人生のむなしさ」というのは意外に仏教的な考え方でもあります。自分は大学で仏教について学んだ訳ですが、若き日の仏陀=ゴータマ・シッダールタは非常に多感な青年であったといいます。

 彼は釈迦族の王子だった訳ですが、青年期には内にこもって思い悩む事も多かったと言われています。そんな彼を心配した父王は、「まあ外の空気でも吸って来なさいよ」と、お供を付けて彼を外出させます。これを四門出遊といいます。

 ですが彼は外出先で、老人、病人、死者(葬儀)を見ます。そして人は誰でも老い、病を患い、やがて死ぬのだという現実を目の当たりにします。それを避ける事ができる人はいません。王族であろうと、どれだけの富を誇ろうと、市井の貧しい人々と同様に人は老い、病気になり、死んで行きます。つまり、生きる事そのものは、逃れ得ぬ苦しみです。『一切皆苦』という言葉もある通り、この世で生きる事は全て自分の思い通りには行かないものです。

 この生老病死を、仏教では『四苦』といいます。『四苦八苦』という言葉がありますが、四苦八苦の四苦とは、この生老病死を指します。じゃあその四苦に対してどうするの? という問いに対する仏教的回答は、「苦しみを生み出す煩悩を捨てよう」という方向性な訳ですが、この先を説明するととても長くなるので割愛します。

 ここで言いたいのは、仏教は素晴らしい教えなので一度学ぶと良いですよという事では全く無く、「現代を生きている自分達が思い悩んでいる事の大半は、既にあらゆる人々によって考えられ、悩み抜かれて来た普遍的なテーマである」という事です。もっと簡単に言えば、『自分達はひとりじゃない』っていう事です。

 仏陀にしても、シオランにしても、生きる事が苦しみであり、いかにその苦しみから逃れるか、折り合いを付けて行くかというテーマに取り組んだ人物だと言えます。自分達だって『働きたくないでござる』と言いながら何とか日々暮らしています。そこは『地続き』なんだという事を知ると、ちょっとほっとしませんか?

 自分達が毎日うだうだと悩んでいる事は、仏陀だろうがシオランだろうが同じ様に悩んでいた問題な訳です。歴史背景の違いはあります。科学技術の発展や文化の違いなども当然あります。でも仏教やペシミズムを含む、こうした根源的な『生きる事そのものへの悩み』から自分達が自由であった事はない訳です。言ってみれば仏陀やシオランは自分達の先輩です。歴史に名を残した偉人や賢人というよりも、学校の先輩や親戚のおじさん、あるいはいとこのお兄さん程度の距離感でとらえるといいと思います。

 若き日の彼等が様々な事を思い悩んだ様に、現代を生きる思春期の若者もまた同じ悩みを経験する筈です。その時に、本著の様な思想書をどうやってメインターゲットである若者に届けるか。表題にある様に「生まれてきたことが苦しい」と感じながら日々生きている様な若者に、そうやって悩んだのはあなただけじゃないんだ。自分達だって現在進行系で悩んでいる真っ只中なんだという事実をどうやって伝えるべきか。そんな時に、本著が星海社新書から出版され、表紙を『少女終末旅行』のつくみず氏が描いているという事に、ぐっと意味が生まれて来ます。

 この本の内容を、どんな読者に届けたいか。

 著者ができる事ももちろんあるでしょうが、本の内容以外に、その本がどんなレーベルから出版され、どんな表紙で、どんな装丁でパッケージングされるのかという事には、大きな意味があります。例えば本著が分厚いハードカバーで表紙絵もなく、一冊数千円もする様な重厚な装丁の単行本として出版されていたら、それは若者に届くでしょうか? 自分は否だと思います。現に本著で取りあげられているシオランその人の著作は、電子書籍化もされていなければ文庫になっている気配もなく、一部を除いて現在では絶版になっているのか古書の出品をあたるしかない状態です。本著を読んでシオランに興味を持った若者が、じゃあ本人の著作を何か読もうと思っても、それらが入手難であるという事実がある訳です。これは、残念な事だと思います。

 思想というのは古びない価値を持っていると自分は考えています。ただ、その思想を受け止める自分達の文化や価値観、生活様式が変化している以上、読者にその思想を届ける為には、読み易い形に新訳される事も必要でしょうし、本著の様にレーベルや装丁を読者の嗜好に寄せた入門書も必要になるのではないでしょうか。そしてシオランの思想を今この時に必要としている読者の手に、彼の著作が届けられる様になる事を願っています。

 

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明日は自分の掌に・野島一人『デス・ストランディング』

 

 『繋がり』とは何だろうかと考える。

 日常の中に、それはある。普通に。飾る事も無く。

 買い物に行く。棚から商品を取る。レジに行って会計を済ませ、車を運転して帰路に就く。そうだ、途中で給油もしよう。そしてまた通い慣れた道路を走る。言葉を交わす人もいない。買い物も、ガソリンスタンドでの給油もセルフで済ませられる。外に出ても一人。家に帰っても一人。一人でいるのは気が楽だ。遠慮する事がない。誰かに迷惑を掛ける事を心配しなくてもいい。

 でも、こんな暮らしの中にもたくさんの『繋がり』がある。

 商品は店の棚から勝手に生えて来る訳じゃない。誰かがそれを工場で生産し、また別の誰かが店まで運送し、店員が棚に並べてくれるから自分はそれを買う事が出来る。ガソリンスタンドだって、ガソリンや軽油が地下から湧き出している訳じゃない。誰かが海の向こうからタンカーで運んで来た原油が精製されて燃料になり、それをタンクローリーで陸送して各地のガソリンスタンドまで運ぶ人がいる。それから自分が自動車で走っている道路は誰が舗装した? 橋はどうだ? 家は誰が建てた? こうして今文字を打ち込んでいるパソコンは誰が製造した? 電気は? ガスや上下水道等のライフラインは誰が繋いでいる?

 そこには必ず『誰か(サムワン)』がいる。

 そんな事は誰だって知っている。子どもだって知っている。当然の事だ。常識だ。

 でも自分達は、それらが余りにも当たり前だからこそ、その事を忘れて生きている。だから『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)』の様な物語が必要とされるのだろう。その当たり前の『繋がり』や『誰か』の存在を、思い出す為に。

 逆に言えば、デス・ストランディングの様な、人類が滅亡一歩手前のギリギリの状態に追い込まれでもしない限り、自分達は目を覚ます事が出来ないのかもしれない。でも、本当にその時が来てからでは遅いのだ、きっと。だから本作の様な物語が必要とされる。もしも現実が物語を追い越す時が来たなら、その時は既に手遅れかもしれない。

 実際に、東日本大震災の様な大災害は自分達の社会の繋がりを脅かした。

 物流網は寸断され、被災地には物資はおろか燃料すら届かず、ガソリンスタンドの地下燃料タンクはあっという間に空になったし、店舗からは商品が消えた。各地で断水や停電が起こり、自分が暮らす福島県では原発事故が起きて汚染物質が飛散した。そこまで追い込まれてやっと、自分達は今まで『繋がり』によって生きて来た事を思い出し、それが失われた事を思い知らされた。衝撃を受け、慌てふためいた。

 でもそれも、過去になりつつある。

 喉元過ぎれば、の話ではないが、当時あれだけ『絆』という言葉を連呼していた自分達は、日常が回復しつつある中であっさりとその事を忘れた。生まれた時から一人で生きて来た様な顔をして、他の誰かをしたり顔で批判したり、差別したり、無視したりする暮らしに戻って行った。例えば顔も知らない『誰か』の事を、ネット上で批判する。そうする事で少しの優越感を得る。自尊心を満足させられる。そんなみみっちい暮らしを取り戻して行った。傍目から見れば喜ぶべき事だ。傷は癒やされ、日常が取り戻されて行く事は良い事だ。でも、本当に?

 ネット上の言論空間では、常に『誰か』が『誰か』を攻撃している。批判し、嘲笑し、差別し、非難し、排除しようとしている。見えない銃弾が飛び交って、撃たれた者は撃ち返し、互いに血を流し、呻き声を上げている。その結果、本作の表現を借りればあちこちでネクローシスが起こり、いくつものクレーターが地に穿たれ、自分達は大きな繋がりを断たれて小さな集団の中に引きこもる様になった。自分が仲間と認める集団の中でだけ生きて行く事を選んだ。仲間以外の集団は潜在的な敵だし、仲間であってもいつ裏切られるか分からず、疑心暗鬼になった。それは『棒』の世界だ。互いが武器を手に睨み合う世界だ。本作が描く『縄』の世界、人々が繋がりを回復して行く世界とは真逆の世界だ。

 だから本作は問う。自分達は、互いに傷付け合い憎み合う様な『明日』が望みなのかと。

 『TOMORROW IS IN YOUR HANDS. (明日は君達の掌に)』

 この言葉がゲームの中で、またプロモーションの中で何度も繰り返されるのは、きっと自分達に問い掛けているからだ。あなたは、どんな『明日』を望むのかと。

 自分はもう中年だ。『未来』を夢見るには歳を取り過ぎているかもしれない。でも、『未来』というのがいつの事なのかと言えば、それは遥か彼方の話ではなく、『今日』のほんの少し先の『明日』を積み重ねた先の事だ。自分はどんな形の『明日』を求めるのか。自分は『明日』がどんな形であって欲しいと願うのか。その小さな自分の願い、自分も含めた『誰か(サムワン)』の『明日』への願いが連なった先に、『未来』がある。

 社会にとって、世界にとって、自分の存在は取るに足らない。自分には格好良い通り名や二つ名の様な、或いはワークネームの様な名前はない。自分はどこまで行っても『誰か』でしかない。

 でも、この世界を作っているのはそんな『誰か』達だ。そしてその中には、自分だって繋がっている。名前のない『誰か』の一人として。だから『明日は自分の掌に』ある事を忘れてはならないのだろう。その荷物を背負っているという事を、蔑ろにしてはならないのだろうと思う。

 当然、その荷物は軽くない。今より少しでもより良い『明日』を引き寄せたいと願うのなら、自分達には責任がある。辛くても途中で投げ出す訳には行かない。だから、疲れた時、孤独だと感じた時、声を掛けて欲しい。「誰かいるか!?」って。そうしたらきっと「俺がいるぞー!」と返すから。『誰か(サムワン)』の一人として。同じ荷物を運んでいる仲間として。無理に手を繋がなくてもいい。きつく縄で結ばなくてもいい。ただその手は誰かを殴り付ける為の固めた拳じゃなく、少し力を抜いて開いていて欲しい。そう、いつでも互いに手を振って合図できる様に。自分がここにいる事を。

  

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本質を貫く、哲学の鋭さ・國分功一郎『原子力時代における哲学』

 

 自分は福島県民だ。

 あの3.11・東日本大震災と、その後の原発事故が自分達に与えた衝撃は大きかった。当時自分は水素爆発で吹き飛んだ原子炉建屋の様子をテレビ越しに見ながら、「もしかすると自分は地元を捨てて他県に出て行かなければならないのか」と真剣に悩んでいた。

 放射能は目に見えない。テレビでは『有識者』などと言われている人達が繰り返し注意喚起していたが、それもどこか他人事の様に聞こえ、現実味が無かった。何をどこまで防護すれば良いか分からない中、同僚は外に出る時は日傘を差し、帽子を被り、手袋とマスクをして、なるべく放射性物質の付着から身を守ろうとしている様だった。それは完全に非日常的な光景だったが、それでも自分達の『日常』は続く。仕事があり、日々の暮らしがある。

 いっそ原発の周囲に住んでいて、自宅が非難区域に指定されれば諦めも付いたかもしれない。そうなればもう政府の指示に従うしかない。家を捨てて避難するしか無い。でも、原発から直線距離で約60キロという半端な場所で暮らしていた自分達にあったのは、自主避難するかこの場に踏み留まるかという二択だった。そして自分は、地元で暮らし続ける事を選んだ。自宅や職場といった生活基盤を全て捨てる事は出来なかった。

 その時の選択が正しかったかどうかは分からない。色々な事を言う人がいる。でも、誰が正しいかはいまだに分からないままだ。

 原発事故以来、地方ニュースの天気予報には『今日の県内各地の空間放射線量』という項目が追加された。各地のモニタリングポストで計測された空間放射線量が毎日テレビから流れてくる。でも、それを気にして何になる? 自分達一個人にどんな対策が立てられるというのか。だからその情報は「今日の洗濯指数」とか「今日の花粉の飛散量」等に比べると、既に何の意味もない、ただ日常の中を流れて行くだけの数字になっている。自分達は既に麻痺しているのだろう。

 でも、これだけの事故を経験してなお、「原発再稼働はすべきだ」という意見がある。全国でじゃなく、福島県内に限ってもそうだ。少なくとも福島県民はあれだけの原発事故を経験したのだから、皆反原発でまとまっているんだろうと思われるかもしれないけれど、そんな事もない。物事はそんなに単純じゃない。

 そんな中で、自分は本著を手に取った。

 まず、原子力発電の是非について語る時、これまで主に問題にされたのは発電コストと燃料の安定供給という『経済的問題』と、温室効果ガスを削減する為には原発が必要なのではないかとする『環境問題』が主だったと思う。そこでの主役は経済評論家や環境問題の専門家の様な人々だ。或いは電力が安価に、安定的に供給される事を望む財界の著名人や、政治家や官僚といった人々だ。別の場所で、その事については書いた。

 しかし、本著では『哲学』によって原発問題に切り込む。なぜ人は兵器である原子爆弾や水素爆弾がもたらす危険性には敏感に反応する一方で、原子力発電の様な核技術の平和利用には寛容だったのか。早くから核技術に対する警鐘を鳴らした哲学者・ハイデッガーの思想を中心に、著者は考察を重ねる。

 哲学が原発問題に対して切り込む際の手がかりになる事。まずその事が新鮮だった。それも、「哲学の分野でも原発問題は語り得る」というよりは、「哲学でなければ語り得ない原発問題の本質がある」という踏み込み方で、その事は自分の中にも存在しなかった気付きだった。

 同時に、哲学によって原発問題が語り得るのならば、自分が今まで抱えて来た原発問題に対する疑問や疑念を、自分自身が過去に学んだ仏教学の分野から語るという事もまた可能なのではないかという事にも気付かされた。特に原始仏教には哲学的な側面が色濃い。また、そこまで構えなくとも、「経済や環境問題だけが原発問題の本質ではなく、様々な分野の専門家がそれぞれの立場から意見を述べて行く事が必要なのではないか」という事がより鮮明になった気がする。

 例えば、(仏教学からという構えた意見ではなく、一個人の肌感覚からしても)原子力発電が抱える問題点のひとつは、「将来にツケを回す事で現時点での利益を得る」という『利益の先食い』にあるのだと言える。

 「原発は発電コストが安く、燃料の安定供給が可能だ」という主張があるが、仮にその主張が正しいとしても、原子力発電所という「金の卵を産むガチョウ」の寿命は60年しかない。標準的な40年の耐用年数と、最長20年の延長期間だ。それ以降は、廃炉にしなければならない。そして、福島第一原発の様に事故を起こして吹き飛ばなかったにしても、その廃炉費用と廃炉にかかる期間は相当なものになるだろうし、高度経済成長期に全国各地に建設された原子炉が、次々と耐用年数を超えて廃炉になる未来は、近い内に必ず来るのだ。

 更に言えば、使用済み核燃料や、高レベル放射性廃棄物をどの様に廃棄(貯蔵)するのか。最終処分場もこの国にはない。処分場を作れる見込みもない。(にも関わらず、福島県内には『中間貯蔵施設』があるのだが、いつまで中間貯蔵するつもりなのか誰も知らない)

 かくして自分達は、今この場で背負い切る事が出来ない、ある種の『負債』を、将来自分以外の誰かが背負わなければならなくなると知っていて、その上で原子力発電によって得られる利益だけを『先食い』してしまっている。それら『負債』が表面化し、誰かが困る時には自分は責任のある立場にはいないから、或いはこの世にいないから関係ないとでも思っているのだろうか。

 これと同じ事は、様々な場面で見て取れる。ある時は先程と同じ『利益の先食い』であり、またある時は『過去に積み上げた信用の切り売り』だったりもする。例えば外国人技能実習生に満足な報酬を支払わず、技能研修も行わずに単純労働者として使い潰す行為は、過去の日本人が築き上げた国際的な信用を切り売りして現金化する行為であると同時に、将来の日本人への不信という負債を積み上げる行為に他ならない。端的に言って愚かだ。

 他にも、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏が怒りを顕にした様に、先進諸国の大人達が地球温暖化の問題についてその責任を回避しているのではないかという鋭い指摘がある。自分達大人は、既に将来ある若者たちの未来を食い潰す事が許されないのだと気付かなくてはならない。

 それは仏教的視点から見ると、人間が持っている『欲』というものを、いかに社会全体でコントロールして行くかという事でもあり、自分の責任から逃れていたいという人間の(自分達の)弱さについて、どんな風に倫理的なアプローチをして行くべきかという問題でもある。その上で、先進国と新興国の様な世界的な富の偏在について、どんな手当てをして行く事が出来るかという事もまた問われている。先進国が自国の若者達の未来を先食いしてしまったのと同様に、環境問題が表面化するまでに、自分達は本来新興国が使える筈だったリソースをもあらかた食い尽くしてしまっていた訳だから。

 この様に、政治経済が核技術や原子力政策を語るならば、倫理や宗教学や哲学もまた、自分達のいる場所からそれら社会問題を語り得るし、語らねばならないのだという事。本作はその事を鋭く指し示している。自分は集合知を盲信する訳ではないが、たった一人の意見や見識よりも、集団の中で知恵が鍛えられる事を、今は信じたい。

 

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プロフィール

黒犬

Author:黒犬
映画と小説を主食に生きている。
地方の片隅で今日も黙々生息中。

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